2016-06-26

自由律俳句を読む 142 「鉄塊」を読む〔28〕 畠働猫

自由律俳句を読む 142
「鉄塊」を読む28

畠 働猫


今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十九回(201411月)から。

この回では玉虫による招待で梶原由紀氏をゲストに招き、句会を持った。
梶原氏は自由律俳句結社「海紅」所属の若い俳人である。
当時の玉虫の紹介文によれば、「海紅」でも最年少とのこと。
若い詠み手は貴重である。
これからの俳句人生の長さを考えれば、伸びしろという点で、われわれおっさん世代の及ぶところではない。
次回紹介予定の第三十回から鉄塊に参加する武里圭一同様、これからの自由律俳句界を牽引していく存在と言えるだろう。

文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第二十九回(201411月)より

空き缶踏んで我が居間 馬場古戸暢
△ビールだろうか。かたづけなさい。カーテンを開けなさい。(働猫)

光景が目に浮かぶようである。
微笑ましいが、近親者から見ると心配にもなりそうだ。現代の其中庵か。



禁煙パイポに歯型ついとる 馬場古戸暢
△「歯型」が執着を感じさせておもしろい。(働猫)

禁煙パイポといえば、「私はこれで○○をやめました」というCMが話題になった。オチは小指を立てて、「コレ(女)で会社をやめました」であった。
近年の不倫騒動を思うと、我々はあまり進歩してないようにも思う。
我が家でも母親が一時期、禁煙パイポを使用していた。
私がたぶんまだ小学生の頃のことだ。
歯型と口紅がついたパイポが、実に汚らしく感じたことを憶えている。



ゴキブリと出会う野外の十一月二日 馬場古戸暢
△北海道なのでよくわからないのですが、野外だったら別に嫌じゃないような気がします。11月2日にはどんな意味があるのかな。(働猫)

当時の句評でも述べているが、野外であれば、何に出会ってもそれほど嫌悪感がないように思う。
室内という、自分の領域に侵入されて初めて、敵として認識するのではないか。
112日が何の日か調べてみた。
キリスト教の万霊節、白秋忌にならんで、「タイツの日」というのがあった。
古戸暢がこよなく愛する生足を覆い隠すタイツ。
そんなタイツの記念日に野外でゴキブリと出会った。
これは句にせざるを得ない景であろう。



遠のく声に手を振る 馬場古戸暢
●句と言うには不足するところがあるように思う。(働猫)

以前、自分なりの名句の条件について述べたが、その一つが「3つの要素(チャンク)でできていること」である。
この句の場合、2つのチャンクに見えてしまい、どうしても物足りなさを感じるのだ。
それが当時感じた「不足」の正体であろう。



波立つ川面に秋風我が影 馬場古戸暢
△「波立つ」「秋風」はどちらかに絞れそうだ。影が揺らめく様子を詠めば「波」も「風」もはっきりと言葉にする必要がなくなる。(働猫)

こちらは逆に要素が多い。古戸暢の句にしては珍しく冗長である。



にじんだ月に泣いてやらない 小笠原玉虫
△「にじんだ」ということはすでに泣いているわけで、「泣いてやらない」というのは、意地の張り方としてもあたりまえかと思う。(働猫)

なんとなく矢野顕子とか松任谷由実の声で再生される句である。



悔いあって朝風呂の熱い 小笠原玉虫
◎風呂の熱さは自分のさじ加減次第だと思うのだが、そうできないということはこれは温泉だな。温泉宿だろう。昨夜の宴会での醜態を悔いているのだ。悔やんでもだめだ。あなた以外のだれもがあなたの行為を忘れてはくれない。もう二度と酒を飲むまいと何度目かの禁酒を思うのであろう。(働猫)

当時、この句を特選としていたのだが、正直あまり記憶に残っていなかった。
これまでも玉虫の句を何度か特選にとってきたのだが、そのどれもが鮮烈に記憶に残っている。
それらに比べるとやや平凡な句に思える。
これはたぶん、句評を書きながら楽しくなってしまった結果であろう。
この頃、自分は全句に評をつけていたが、特選や並選について、句評を書いた後に決めることが何度かあった。この回はそういう回であったのだろう。
温泉宿での羽目を外すことも時に必要であり、そうした思い出を刺激されたのだ。作者の意図とは違うだろうが、その意味で自分にとって良句となったと、そんな例である。



不在のきみの寝巻きを拾う 小笠原玉虫
○「不在の」がよいですね。まだ失ったことに慣れていない状況。その混乱ややがてくる悲しみに共感します。(働猫)

この「不在」を当時は勝手に戻らないものと解釈しているが、そうでない場合もあり得ることに思い至った。
ただし、そう解釈すると何の面白みもなくなってしまう。
やはりここでは、喪失を「不在」とあえて言い換えている、認めまいとしている、そうした意思を読み取るべきであろう。



リコリスどもの枯れて突っ立つ 小笠原玉虫
△「リコリス」と言われるとあのぐるぐるの不味いお菓子を思い浮かべてしまうのですが、「枯れて」とあるので、これは彼岸花のことですかね。(働猫)

そう言えば、このような光景を見たことがない。
北海道ではあまり見られないのかもしれない。



弱った父がさみしい野分 小笠原玉虫
△まだ元気だったころは、台風が来るたびに「ちょっと裏の畑の様子を見に行く」と出かけていた父だが……。死亡フラグを立ててはへし折ってきた父の弱った姿は寂しいものであろう。(働猫)

「死亡フラグ」というものは、現代における物語類型と言えるだろう。
様々な表現者たちが重ねてきた試行錯誤が、収斂進化のように似た形に落ち着いたのだろう。



息切らすバッティングセンターあいつを許そう 風呂山洋三
△さわやかですね。青春ですね。(働猫)

青春映画である。まぶしくて目をそむけたくなる。



カツカツと夜の道もうすぐ冬が来る 風呂山洋三
△ハイヒールかな。冬の空気は澄んでいて、靴音も濁りなく響くような気がします。(働猫)

冬という季節は、北海道共和国においては、死と隣り合わせの恐ろしい季節である。
しかしその始まりに訪れる澄んだ空気、ひやりとした朝の気配は好ましいものでもある。
そんな瞬間を思いだした。
この句では、そんな気配を音から感じ取っているのだろう。



夕闇ドウダンの赤を授かる 風呂山洋三
△黒と赤の対比がきれいですね。「授かる」という表現が効いています。(働猫)

上の句が聴覚に基づく句であることから、この句も意識的に視覚を強調したものだろう。



枯れ葉蹴散らすお人好しです 風呂山洋三
△誰かの掃き集めた枯葉を蹴散らしている奴が「お人好し」を名乗る矛盾を笑うべきなのか。「お人好しです」はなんとなく許してしまうキラーフレーズかもしれない。(働猫)

よく考えるとよくわからない句なのだが、考えてはいけないのだろう。
お人好しだと言っているのだからお人好しだなと思っていればよいのだろう。



蠅を逃がす寒空 風呂山洋三
○実に偽善的でよい。人間の本質のようだ。(働猫)

逃がす先が寒空では、どうせ蠅は死ぬだろう。
死を自らのそばから遠ざけているだけとも言える。
それが偽善的であるという理由である。



月の鋭角ふれた耳が冷えている 梶原由紀
○「鋭角」は月の細さなのか、それとも月の光に照らされた耳が三角なのか。なんとなく後者で耳の持ち主は犬や猫のように感じた。月明かりの中、そばに侍る犬または猫を撫でる様子ととる。(働猫)

猫の耳は薄く、確かに寒い日に触れると冷えている。
そのように読むのが自然であるように思っていたが、恋人同士の景と見るのも色気があってよかろうかと思う。



こんなひとたくさんいるだろう夜長の窓の淵にいる 梶原由紀
△『こんなこいるかな』っていう絵本がありますね。いえ、ただそれだけです。(働猫)

思春期における、自分が特別な存在であるという思いから抜け出した視点である。少女期の終わり、喪失を表しているのかもしれない。
しかし句としては冗長であり、痛みを生かし切れていない。



カレンダーめくるガラスの嘴が立冬だ 梶原由紀
△「ガラスの嘴」が何なのかわからなかった。なんですか。(働猫)

なんだろう。
当時はなんとなく水飲み鳥のことかと思っていたが、そこに立冬を感じる要素が見いだせなかった。
検索してみたがよくわからない。
カレドニアガラスの嘴が道具を使うために特殊な形状に進化しているということと、ガラス浣腸のことがわかりました。
新しい知識。



濡れた草原の空き缶を蹴ってしまう 梶原由紀
△あ、中に雨水がたまっていて、それが自分にかかるパターンのやつだ。「蹴ってしまう」にはその後悔が表れているのですね。(働猫)

空き缶が落ちているような草原。
小さなころ住んでいた田舎にはあった景である。
したがってどうしてもこの句からは郷愁を覚えることになる。
懐かしい。子供のころの失敗談であると思えば、微笑ましい句である。



血の気のないキーボードをたたく深秋 梶原由紀
△このキーボードは、楽器だろうか。血の気がないのは白い鍵盤を表したものか。それともパソコンか。どちらにせよ無機質な世界で不本意に生きている感じがよく出ている。(働猫)

「不本意さ」は自由律俳句における一つの主題であるように思う。
今現在満ち足りている者は詠む必要がないからだ。
キーボードを「血の気のない」としたのは投影であろう。
実際に血の気がないのは自分自身だ。
今私はまたも扁桃腺が腫れて、熱と鼻水にあえぎながらまさにキーボードを叩いているところであるが、そうした熱はきっとこの記事からは伝わらないだろう。無機質な世界である。
顔さえ良ければだれでもいいので結婚して優しくしてくれないものかと思う。



*     *     *



以下五句がこの回の私の投句。
石仏に祈りに戻る 畠働猫
私の知らない苦しみもある白い墓 畠働猫
貝殻が光る幸せに生きればいいのに 畠働猫
ぼくに来なかったヒーローとして生きる 畠働猫
帰る身に大き過ぎる月 畠働猫

自分の当時の句評を見返してみると、どうも熱が低いような、そんな印象を受ける。当時の自分は、なんとかこの「鉄塊」という場を次の世代に引き継ごうという思いが強かったように思う。そのため、句会を楽しむよりも維持しようという使命感が先に立っていたようだ。
冒頭で述べたように、若い世代の詠み手は本当に貴重なものだ。
世代交代が円滑に行われなければ、生物だって滅びざるを得ない。
自由律俳句に限らず、すべての芸術の持つ課題と言っていいだろう。
だから、この「鉄塊」という場を、次の世代が使いやすいように維持し、引き継ごうと考えていた。
しかし今思えばそれはまったくの余計なお世話であった。
若者はいつの時代もたくましいものだ。
前世代が残した場や枠組みなどなくとも、それぞれに必要なものがあれば自ら作り出していく。
我々がそうであったように、次世代もまたそれぞれに強く、高らかに、詠いたいものを詠っていく。
我々のすべきことは、それを信じることである。
信じるということは、道を譲るということではない。
彼らに本気で立ち向かう修羅であり続けるということだ。
そうすることで代を重ねた文芸は、より大きな感動を生み出していく。
そうすることで人類は、より優れた生物として進化を遂げることになるのだ。



次回は、「鉄塊」を読む〔29〕。


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