2016-06-26

【句集を読む】水と仮面のエチカ 小池正博句集『転校生は蟻まみれ』を読む 小津夜景

【句集をむ】
水と仮面のエチカ
小池正博句集『校生は蟻まみれ』を読む

小津夜景


水の句集、と聞いて私がまず思い出すのは西原天『けむり』。最近では野間幸『WATER WAX』もあった。どちらも巧みな〈水の置〉織りなす句集だ。


小池正博校生は蟻まみれ』にも水の句の集中する連作がある。これが「柔よく剛を制す」の法とでも形容すればよいのかたいへん活殺自在にふるまう粋な水で、観察していると興味が尽きない。

悪霊を見るのは愉快だね
汲み上げた水軍の水よく燃える
一角もいて川岸の古本屋

水は善く万物を利してわず。上の句では「悪霊」「水軍」「一角」といった〈異形の現前〉の放つ気を相殺するのに水が一役買っている。

夢幻ではなく沸点の能舞台
紫探しあぐねて水ぶとり

夢幻能という〈異形の現前〉を旨とするはずの舞台を、沸騰=化によって殺いでみせた一句目。つまりこの句の「沸点」は「悪霊を見るのは愉快だね」の「」や「汲み上げた水軍の水よく燃える」の「燃える水」などと同様〈異形の現前〉をコントロールするからくりの一例である。

一方、粋の象である「江紫」が見つからず、体内に水を溜めこんでしまったのが二句目。川柳に「紫と男は江戸に限るなり」と言うが、この句の人物は侠客気分を高める道具が手に入らなくて、せっかくの水の法術を持て余しているようだ。

君がよければ川の話をはじめよう
友釣りの鮎にしばらくなっておく
突き落とされてもよい流だ
水底の杉の葉たちのひとつ話

水という柔のを介しつつ「君」相対する〈私〉。我が身を呑みこまれても突き落とされても良しとする、まこと潔い捨己人さで「友」に接する〈私〉。勢いよく火のつくことで有名な「杉の葉」が、その燃えやすき質を「水底」で抑えつつ、とっておきの話を語りあう光景。いづれの句も、澄んだ水に重ねられた綺麗な男気を感じさせる。


このように『転校生は蟻まみれ』における水は〈異形の現前〉を活殺するブースターとして働き、また句中に〈私〉が存在する場合はその私が対象に合気=同期してゆくための仕掛けにもなっている。素晴らしく面白い。とはいえ私の興味をより引いたのは、今説明したような光景が本書では〈男としての立ち居振る舞い〉にそこはかとなく重ねられていることの方である

日頃の小池作品が、異化効果などの理論的観点からアプローチされることが多い事情を省みるに、男、などといった感想は衆人を唖然とさせるだろうが、本当にそう感じたのだから仕方がない。私は小池の句を眺めるたび「この人の意識の底には、いつも責任という問題があるのではないか」と思う。しかもその時私の想像している責任とは「すべてが終わってしまい、もはや責任を果たしようのない段階になって初めて向き合わざるを得ない責任」といった類のものだ。と、こう書くとなにやら回りくどいが、これを素朴に「総括」と言っても一向に構わない。

戦争に線がいろいろありまして
明るさは退却のせいだろう
反復はもうしなくてもいいのだよ
       ふりかけの半減期なら知っている
       この町は葉脈だけで生き
       鳥去って世界はひとつ咳をする
       七色の埃が飴についている

行雲流水として、終わりの世界をなお道義的に生きること。熱狂を抑えつつ、正気の侠気を静かに掲げること。私にはあの〈たてがみを失ってからまた逢おう〉という有名句も、しさを味わいつくしたのちにがる、明るくかな風の吹く光景のように思われる(風が吹いたとて、なびく鬣はもはや残っていないのだけれど)。

水牛の余波かきわけて逢いにゆく

ここで〈私〉が逢いにゆく相手は男女のいずれか、と尋ねられれば私は「女ではない」と答する。では男? いや、そうとも言いきれない。「友のなさけをたづぬれば、義のあるところ火をも踏む」ではないが、ともあれそれは小池の義侠心をゆさぶる〈何か〉に違いなく、まただからこそ、たとえ水のない場所でも、逢わねばと思う心が「余波」を創出し、〈私〉はその水に合気=同期するかたちで、わが心を呼ぶ〈何か〉に対する礼に赴くことになる。

ここで「かきわける」のが人混みではなく水牛であるところがこの句の良さ。静かな熱い想いととぼけた味わいとが交差し、さらには言葉からどこか一歩引いた冷静さも感じさせる。


最後に触れておきたいのは次のこと。

「本書に見られる語の選択は、本当に異化効果——日常と非日常とをゆさぶり、言語と人間との関係を脱習慣化させることで新しい世界を発見すること——を目的としているのだろうか?」 

違う、と私は思う。おそらく小池正博の言葉の新鮮さ(難解さ)は、言葉が内面=意味へと沈まないようにするための仮面だ。

前九年をとりかえ後三年
水槽の模擬サンゴにも主

この世の中には「とりかえ可能な」「本物そっくりの贋サンゴ」だからこそ果たせる道義というものがある。内面という〈主体の遠近法〉が確立される近代以前は、誰もがその仮面をかぶっていた。そしてエチカとは〈擬の仮面〉を黙ってかぶる大人のたしなみ以外の何ものでもない。

小池正博は、川柳を「面」的にではなく「面」的にたしなんでいる。私はそう思う。なんのために? 言葉がややもすると産み出してしまう〈異形の現前〉すなわち〈内面の熱情〉を躱すために。そして水と共に〈仮面の倫理〉演じる、すなわち再表象化(ルプレザンタシヨン)するために。


京劇の面をかぶると波の音

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