2016-06-26

【句集を読む】はじめてください、川の話を 小池正博句集『転校生は蟻まみれ』を読む 西原天気

【句集を読む】
はじめてください、川の話を
小池正博句集『転校生は蟻まみれ』を読む

西原天気


夏の空。

入道雲から水なすが落ちてくる  小池正博

その瞬間、入道雲が私の視界に立ち上がり、そこから、あのぽてっとまるい水なすがひとつ落ちてくる。これ、驚きの瞬間、ど同時に至福の瞬間。

なぜ至福かというと、驚きが私(=読者)とその周囲を一新するから。

洗いたてのシャツを洗濯機から取り出したときのうれしさ。その種の至福。



現代川柳のいくつかの句集は、ほとんどわからない句で占められていたりします。

おっと、「わからない」という言い方は曖昧でした。俳句(とその周辺)においては、多義的にも用いられる。ひとつは「どこがおもしろいのか、わからない」「良さがわからない」。意味伝達性の高い句を好む人が、意味伝達に重きを置かない句に対して「わからない」と言うとき、「句意がわからない」と同時に、それよりも強く、おもしろさ・良さがわからないという拒絶の態度。彼らにとって「わからないけれど、おもいろい・良い」はあり得ません。

冒頭で私が告白した「わからなさ」は、それとは違う。わからないけれど、おもしろがっていたりする。その「わからなさ」は、句の意味がわからないというより、私が俳句に親しむなかで享受してきた「趣向」のようなものが見いだしにくいという意味かもしれません。

カワセミが出るまでニスを塗り続ける  同

この句、句意はどこまでも鮮明です。わからないところは1ミリもない。ただ、いわゆる(この「いわゆる」は特に強調)俳句が私たちをおもしろがらせる方法(=趣向)とはずいぶん違うように思います。

だからといって、私がおもしろがれないかというと、そんなことはなくて、すんなりと気持ちよく読む。ただ、この句の趣向を説明せよと言われても、それはムリ。前に出てきた「意味伝達性の高い句を好む人」から「どこがおもいろいのか」?と問われて、説明はできない。それは、私が、俳句的言説の慣習、俳句的批評のプロトコルに慣れ親しみ過ぎた、言い換えれば、毒されたせいかもしれません。

この、私の不可能性・無能は、ときどき悲しくなります。現代川柳に親しむ人が言語化できることを、きっと私はできない。それはすなわち、語り合えないということになるかもしれないので。

それでも、私は、この川柳句集『転校生は蟻まみれ』(2016年3月)を、読むのです。読む、というだけではなく、ところどころ、とても愉快に感じながら。



とある日のコネティカットの焼き魚  同

コネティカットは行ったことがありません。悲しいかな、アメリカ北部の州というくらいしか知りません。でも、コネティカットとあるのだから、そこはコネティカットであり、特定できないある日、焼き魚。ちょっとヘンテコリンです。フィッシュをローストするのではなく、サカナを焼く。

この読み方は、ひょっとしたら、他人と違っているかもしれません。この、そのまま読む、という読み方。


別の句でも、万事この調子で、書いてあることを、そのまま、からだに入れます。

なぜそんなことになるかというと、バカだから。つまり、アタマが回らない、働かない。だから、そのまま語と語の連なりを受け入れるしかない。それ以外に方途を持たない。

そうしてでも、読みたい、ことばに魅了されたい。それはもう、性(さが)、業(ごう)でしかないのだと思います。



そのまま受け入れて、理解できた気になるのではありません。(自分にとって)わかる・わからないを混在させたまま飲み込む。そのとき、腑に落ちた(胃袋に収まった)感じと、「不思議」がそのまま残るのと、混在です。

アーチでしたか兄さんの結論は  同

この句などは不思議成分が多いままです。腑に落ちませんが、(ことばとして)美味。



そのまま読むという態度は、句が語りかけてくれば、応答するという、シンプルな反応でもあります。

君がよければ川の話をはじめよう  同

いいに決まっています。そういう切りだされ方はかなり好きだし、川の話も大好きです。この句には身を乗り出してしまう。

とか、

こんなときムササビはよしてください  同

いや、私、ムササビをどうこうしようなんて、考えたたこともないので、安心してください。否、ちょっと考えたことがあるかも。

とか、

フィヨルドの3番目にてお待ちする  同

とあれば、「そうか」と、フィヨルドが広がる。でも次の瞬間、「ちょっと待てよ、3番目って、どこだ?」と悩みます。「わからへんて!」と叫ぶ(もちろんアタマの中で)。

これも常人とは違うかもしれません。以前、ブログ記事のコメント欄で、福田若之さんの「けれど、僕は、ほとんどの俳句について、その句が僕に話しかけているとは感じません。たとえば、《約束の寒の土筆を煮て下さい》(川端茅舎)を読んで、煮てあげようかどうしようか、とは思いませんよね。」と、「思わない」ことをごく当たり前のことのように書き込まれているのを見たとき、ちょっとびっくりして、軽いショックを受けました。ああ、ふつうは、そうなのかもしれない。

私は《約束の寒の土筆を煮て下さい》とあれば、「どうしよう? 煮てあげたい」と思うのです。「煮てあげたい、でもいまは無理。煮てあげられたらいいのに!」。でも、みんな、なんで思わないの?

『転校生は蟻だらけ』に戻りましょう。

琳派だろう手術痕尋ねあて  同

この句には、一拍置いてから、「節子、それ、琳派やない。リンパや」とツッコむ。



句を読むにおいては、そのまま読む、句にそのまま反応する、という態度ではなく、《読みの枠組み》があって、それを通して分析するように読み解く、というのが一般的かもしれません。

ただ、誰もが、句と句の背後を読み解けるわけではありません。それができない私は、ただ「読む」ということをする。呆けた態度とお叱りを受けるかもしれませんが、許してください。この記事は【句集を読み解く】ではなく、【句集を読む】ですから。

不可能・無能に苛まれた人間も、句を快楽することができるはずです。おんぼろのクルマでも、美しい景色を感じつつドライブすることができるのとおんなじに。


【追記】
著者の「あとがき」にこうあります。
「川柳」とは何か、今もって分からないが、「私」を超えた大きな「川柳」の流れが少し実感できるようになった。けれども、それは「川柳形式の恩寵」ではない。「川柳」は何も支えてはくれないからだ。
川柳は何も支えてはくれない。この一文の意味するところをきちんの理解できたわけではありませんが、そういえば、「俳句はすべてを支えてくえる」と考えているフシが、私にはあります。ただし、それは「俳句形式の恩寵」などではない。その点は同じですが、支えてくれる・支えてくれないという点での俳句と川柳の対照を、自分なりに感じました。


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