2016-07-31

【句集を読む】蛸を釣るのは誰か? 関口恭代『冬帽子』の一句 西原天気

【句集を読む】
蛸を釣るのは誰か?
関口恭代冬帽子』の一句

西原天気


さりがたし。

終わりにしなければいけない、終わりにしたほうがいいのに、終われない。そういうことがよくあります。

飯蛸釣り釣れぬと言ひて立ちあがる  関口恭代

誰に言うのではなく自分に言う、あるいは全人類(というのは不特定多数という意味ですが)に告げる「釣れぬ」。これは(心理的)儀礼の一過程でもあるでしょう。

ところで、ここでちょっと一般的な話題。作中行為者ということが、俳句でも言われたりします。この句の場合、「立ちあがる」のは誰か。

行為者(主語)が示されない俳句では、作者の行為と読まれることも多いのですが、この句の場合、作者を観察者、見る人と解するほうが自然な感じもある。行為者を誰と決めるのは、脈絡、とも言えそうです。

しかしながら、(これふだんから思っているのですが)、書かれていない・示されていないことの空白(行為者に関する空白)=行為者は誰でもない・誰でもある、と解するのが自然ではないか。

(えらくあたりまえのことを言っている気がしますが、まあ、いいでしょう)

立ちあがったのは、作者でもいいし、誰かでもいい。

先に心理的な儀礼と言いましたが、このときの実行が個人的な事柄であったとしても、儀礼性は集合的(collective)なものです。

俳句はいつでも、個人的であると同時に集合的であるような気がします。


掲句に戻れば、「立ちあがる」というなにげない座五で、その瞬間、海の広がりが見えました。句そのものも、なにげない。でも、このあたりに俳句のコクがあり、暮らしていることの妙味があると思うのですよ。


掲句は関口恭代句集『冬帽子』(2016年2月/ウエップ)より。


なお、まったくの余談ですが、「飯蛸の炊いたん」(関西弁)、ほんと美味しいですよね。


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