2016-08-14

【句集を読む】渚まで 川合大祐『スロー・リバー』を読む 西原天気

【句集を読む】
渚まで
川合大祐スロー・リバー』を読む

西原天気



まず言っておかねばならないのは、ここに何をどう書いても『スロー・リバー』という句集の面白さ・豊かさに水を差すことになる、ということ。ならば、書かなければよい。いや、それはそうなのですが、水を差してまで、この句集を紹介したいということかもしれません。

ロマンチックな言い方になりますが、1冊が、鳴っている感じです。楽音だけではなくノイズも。ことばが壊れる音も、ことばが生成していく、例えばブクブクといった音も。

『スロー・リバー』体験といえるでしょう。読者がある句集を体験する、という言い方は、おいそれとはできません。



「Ⅰ.猫のゆりかご」「Ⅱ.まだ人間じゃない」「Ⅲ.幼年期の終わり」〔*1〕の3章から成る『スロー・リバー』はかなり明確な構成をもっています。

「Ⅰ.猫のゆりかご」はコンセプチュアルで挑戦的な句群。冒頭の1句目からして〈ぐびゃら〉〈じゅじゅべき〉〈びゅびゅ〉といった意味不明の造語〔*2〕のかたまり。わけがわからないなか、「挑む」の3音が、この句集全体が、作者・川合大祐の「挑み」の宣言であるとも思えてきます。

以降、〈…〉〈/〉〈▽等の記号、句読点、一字空き、ルビ等々、句にはほとんど使用されることのない記号(いわゆる約物=やくもの)〔*3〕をふんだんに用いて、従来的な表記を乱暴に揺さぶりながら、次々とアイデアを伝えてきます。難解というのではない。変則的な表記が句の成立に巧みに寄与する。「アイデア」と呼んだのは、成果がもたらされているからです。

従来的なものの破壊(これは川柳・俳句が共通してなんらかの程度に持っているテーマ)は、表記の仕掛け以外に、意味の〔はぐらかし〕からもアプローチされています。

桜田門外の変な日であった  川合大祐

あるいは、「これはパイプではない」(ルネ・マグリット)式に、

我思う「これは川柳ではない」と  同

自己言及は、この句もそう。

中八がそんなに憎いかさあ殺せ  同

中八の是非・可否が問題なのではない。この句が中八であることがこの句のすべて。

あるいは、

だからこの句のメタファーに気づいてよ  同

自己言及的と同時に批評的。



ひとつ重要なことは、多種多様な試みや破戒的な句の成り立ちを、たしかな韻律(もちろんのこと五七五を土台とする韻律)がしっかりと支えていることです。

どの句も、音楽性を備えている。言い換えれば、声になっている。これは強調すべき美点です。



「Ⅱ.まだ人間じゃない」は、〈のび太〉に始まり〈のび太〉に終わります。固有人名の多い章。ただし、人名が主たる材料ではなく、人名が表象する出来事や物語を、句が参照する感じです。

出現する語は、人名で〈どらえもん〉〈ジャイアン〉はもちろんのこと〈島耕作〉〈タモリ〉〈夏目漱石〉〈クロサワ〉〈ゴジラ〉〈プルースト〉〈ムーミン〉〈ゴレンジャー〉〈写楽〉……等々。地名で〈マコンド〉。

これらは作者の暮らす/暮らしてきた時間/時代が色濃く反映しているようでもあります。

ついにいまゴトーが来たら困ったね  同

永劫が7~11時だったころ  同

それは、世紀の変わり目の前後数十年の現代史のようでもあり、作者の自己紹介(来し方)のようでもあります。



「Ⅲ.幼年期の終わり」では、前2章のような明確な傾向を(私は)見いだせません。のびのびとして多様な句群としか、いま(の私)は言いようがありません。「Ⅰ」でコンセプトを、「Ⅱ」で参照を提示し終え、「Ⅲ」は存分に〔川柳する〕〔ことばする〕といったノリでしょうか。ヘタな比喩でいえば、川(スロー・リバー)は河口に到り、汽水域の豊穣さと海をのぞむ視界を得た。とにかく、おもしろい、楽しめる(これまでの章もそうでしたが)。

意外だがきれいなものはうつくしい  同

随分と弁当的な遺書である  同

楽譜中どの暗号も僕を指す  同

ことばがことばであるためには、ことば自身が身をよじったり跳んだり振り向いたり、そうしたいろいろな運動をかさねて、やっとことばになるのだなあ、と。

多くを引くのは趣味ではないので、最後に一句だけ。

渚なるものが世界にあるらしい 同

この句は、『スロー・リバー』に身を任せて、そこに流れ着いた私としては、とても感動的な一句なのです。



◆購入・問い合わせ等
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〔*1〕『猫のゆりかご』はカート・ヴォネガットのSF小説(1963年)、『まだ人間じゃない』はフィリップ・K・ディックのSF短篇集(1980年)、『幼年期の終わり』はアーサー・C・クラークの長編SF(1953年)。ついでに『スロー・リバー』はニコラ・グリフィスのSF小説(1995年)。

〔*2〕意味不明の造語は、この句のほかにも登場する。例えば《今日もまたじょびを墓場に埋めてやる》。擬態語でもなさそうな〈じょび〉。この正体を探ってもムダだろう。ことば、ことばの伝達、ことばの流通は、いつも〔不可能〕をともなっている。それはこの句集のテーマのひとつかもしれない。

〔*3〕カギ括弧を用いた句群は、初出を小誌掲載の「檻=容器」に見出だせる。



〔付記〕先行するレビューとして以下を挙げておきます。

小津夜景 これがSFの花道だ
http://yakeiozu.blogspot.jp/2016/08/sf.html
(…)川合大祐にとってのSFとは、ほかには何ももたず、ただ己の想像力だけを武器にして孤独を生き抜いた時代に固く握りしめていた、今も手に残る銃弾のようなものであるにちがいない、と思う。

竹井紫乙 感想(川柳)
http://shirayuritei.jimdo.com/%E6%84%9F%E6%83%B3-%E5%B7%9D%E6%9F%B3/
ことばそのものに対しての懐疑が多く表現されている。加えて川柳について、定型について、川合さんの考えというものが句集全体を通してはっきり表現されている。(…)全体的に、肯定の世界だと思う。

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