2016-08-21

僕たち五人がオルガンという名で呼び、あるいは、呼ぼうとしているもの 福田若之

僕たち五人がオルガンという名で呼び、
あるいは、呼ぼうとしているもの

福田若之


僕はこれから、あなたに宛てて、僕たち五人――生駒大祐、田島健一、鴇田智哉、宮本佳世乃そして僕、福田若之――にとって、オルガンとは何を呼ぶための名であるのかについて、書こうと思う。

オルガン、それは僕たちにとって、第一に、具体的な厚みと広がりをもつ季刊の冊子の名だ。オルガンには、無数のことばが表れる。

オルガン、それは僕たちにとって、第二に、ことばを交わす僕たち自身のつながりの名だ。オルガンには、僕たち五人がメンバーとして属している。

オルガン、それは僕たちにとって、第三に、まだ見ぬ何かをいつかきっとそう呼ぶための名だ。いまから一年半とすこし前、創刊メンバーの四人がこのオルガンという名のもとで構想をはじめたときから、この名は、これまでにも「オルガン」と呼ばれてきたあれらの楽器、あれらの臓器、あるいは、アントナン・アルトーが「器官なき身体」について書くときの概念的なあれらの「器官」などともまた別の、これからきっとそう呼ばれることになるだろう未知の何かを指し示しはじめていた。それはいまでも変わらない。オルガンには、これからも続きがあるのだから。

ここまでを読んだあなたは、きっと、それは他の同人誌や結社とどう違うのか、と問うだろう。オルガンはどんな色、どんなトーンをしているのか、と。

こうした問いに対して、僕は、オルガンは無調だ、と答えたい。もちろん、無調の音楽にも調性らしきものが感じられることがあるように、オルガンもまた、何らかのまとまった感じを与えることがあるだろう。けれど、それは、並んだ音が結果的にそうした感じをもたらしたというだけのことだ。オルガンの色は、そんなふうにして、ぽっかりとあいている。だから、僕は、オルガンを《間》としてイメージする。

ひとまず、教会の建築空間と一体化したパイプオルガンや、部屋のように区割りされたもろもろの臓器を思ってもらってもいいかもしれない。けれど、僕たちがオルガンと呼ぶもの、そして呼ぼうとしているものは、必ずしもそれらに似ているわけではない。

オルガンは、どんな《間》だろうか。

オルガンは、たとえるなら、スタジオだ。オルガンでは俳句がうまれる。

オルガンは、たとえるなら、談話室だ。僕たちはここでいろいろなことを話してきた。

オルガンは、たとえるなら、客間だ。僕たちはこれまでにも何人かのゲストをここに招いてきた。

そして、オルガンは、ここにいる僕たちの間柄でもある。この意味で、僕は、僕たちがオルガンのなかにいるというよりも、むしろ、僕たちのそれぞれのうちに、オルガンと呼ぶほかない何かがあって、それが僕たちをつないでいるのだと感じる。

それは、いま、滲んでいる。この時間。この時間だ。

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