2016-10-09

あとがきの冒険 第11回 ☆☆☆☆☆・ポポポポ・んんんんん 荻原裕幸『あるまじろん』のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第11回
☆☆☆☆☆・ポポポポ・んんんんん
荻原裕幸あるまじろん』のあとがき

柳本々々


川柳の久保田紺さんの句の感想を書いたときに、紺さんがこんなふうにわたしに言ってくれたことがある。「句って、旅をするんですね」と。

句は、旅をする。

そのときわたしは、荻原裕幸さんの歌集『あるまじろん』のこんな「あとがき」を思い出していた。
けれども、もつとも素敵なのは、ここに収めた二百六十のフラグメントのどれかが、各章に付した二百字弱のメモや、歌集を全体から見たときの自分の役割などはころつと忘れて、読者がそれぞれに繁らせてゐる青葉の中に紛れこみ、あたかも最初からそこにあつたかのごとく風に吹かれてゐることである。作者の都合なんて構はない。作品が、宿命よりも強い偶然によつて、ふさはしい居場所を見つけ、そこで生きはじめるとすれば、こんな素敵なことは他にないのだから。
「フラグメント」=断片=短歌が、「作者の都合なんて」お構いなしに「読者」と共に旅をすること。そしてその旅先で「あたかも最初からそこにあつたかのごとく風に吹かれてゐること」。ここで語られているのも紺さんが述べた言葉のようなひとつの〈旅〉のかたちだとわたしは思う。

川柳だけでなく、短歌も、旅をする。じゃあ、もちろん、こんな問いかけもしてみたい。俳句は、旅をするのか? すぐに答えてしまおうとおもう。俳句は、旅をする。

わたしは荻原裕幸さんのこの「あとがき」は実は横溝正史の『獄門島』(1971)のそのままの〈解説〉になっているのではないかと思うのだ(『獄門島』のネタバレが入ります)。

探偵・金田一耕助シリーズのひとつである『獄門島』では俳句に見立てられた連続殺人が起きる。わたしはかつてそれについて宮崎駿『天空の城ラピュタ』とセットにして考えてみたことがあった。俳句とバルスはちょっと似ているように思ったのだ(拙稿「獄門島と天空の城ラピュタ」)。

獄門島で起きた殺人事件は俳句が重要なキーワードになっている。というよりも、俳句が殺人の指令書=計画書=伝達書の役割をなしている。《ほんとうに》殺人をおかしたかった殺人者は死んでしまうのだが、その遺志=意志を《俳句》をとおして受け継いだ人間が殺人を実行する。それが獄門島の連続殺人である。

ここで興味深いのは、その俳句が松尾芭蕉や宝井其角などまったく殺人とは無縁の句であった点だ(たとえば「むざんやな冑の下のきりぎりす/松尾芭蕉」)。たとえ「むざん」という言葉があったとしてもこれを殺人の計画書として解読(デコード)することは意味的跳躍がなければ難しい。しかしその意味的跳躍=旅があったのだ。この句をもとに殺人計画を記憶=想起し、実行した人間が獄門島にはいた。

つまり、荻原さんの「あとがき」の言葉を借りるならば、俳句という「フラグメント」が「自分の役割などはころつと忘れて」、殺人犯の「繁らせてゐる青葉の中に紛れこみ」、「宿命よりも強い偶然によつて」「生きはじめ」てしまったのだ。俳句は、〈旅〉をする(ちなみに『獄門島』の殺人事件では「強い偶然」が殺人の実行と非常に深い関わりをみせる。金田一がおもわず口にした謎解きのきっかけとも)。

川柳も、短歌も、俳句も、旅をする。それをこんなふうに言い換えてみてもいいと思う。旅をする川柳/短歌/俳句は、あらかじめ《他者の法》がそこに書き込まれているのだと。だから、それらは、旅をすることで《他者の法》に出会い、はじめて《意味》と遭遇するのだと。

『あるまじろん』の「ウッドストックの憂鬱」の章の頭には荻原さんのこんな散文が置かれている。
この街では、彼(引用者注:ウッドストック)のお喋りも、☆☆☆☆☆とか★★★★★なんて感じになるに違ひない。…でも、…スヌーピーがゐないと、彼のお喋りが「意味」として結晶することはない…。(荻原裕幸「ウッドストックの憂鬱」『あるまじろん』沖積舎、1992年)
スヌーピーという〈他者〉がいなければウッドストックの「☆」という「フラグメント」は「『意味』として結晶することはない」ということ。こうした非意味的立場の喚起は各章頭の散文でたびたび語られていく。たとえば、
書きたい気持ちも不思議だが、もつと不思議なのは、書きたいと思ふことが何もないのに、何かが書けてしまつてゐるといふこと。ぼくは何を書いてゐる?(荻原裕幸「ぶたぶたこぶた 1992」前掲)
「書きたいと思ふことが何もないのに、何かが書けてしまつてゐる」意味の空白=真空。ひとは意味にとり憑かれ、すぐに意味へと駆け上がろうするが、しかしスヌーピーがいないとウッドストックの「☆☆☆☆☆」のお喋りが解読(デコード)できないように、「☆」は〈旅〉をしなければそれそのものの中では〈意味〉を持ち得ないのだ(《☆自体は何もないのに、☆が書けてしまっている》状況)。

もしそれでも性急に「☆」を解読しようとするならば、《ただたんにそこに》「☆」があることに〈がまん〉できなかったとしか言うしかない。あなたは〈旅〉を待てなかったのだ。「世界はもはや意味もないが不条理でもない」ことに、「たんにそこにあるだけ」に、がまんできなかったのだ。
彼(引用者注:マクベス)にとって世界はもはや意味もないが不条理でもない、たんにそこにあるだけだ。そして、彼の最後の闘いにも彼自身は何の意味も認めていない。……マクベスはただうんざりしたのだといってもよい。自縄自縛の自分に、いいかえれば、自己の欠如を埋めようとして一層大きな欠如を見出した自分に。どこに欠如などあろう。世界はたんにここにあるだけではないか。……そもそも理由などというものは不要だ。(柄谷行人「マクベス論-意味に憑かれた人間」『意味という病』講談社文芸文庫、1989年)
「世界はたんにここにあるだけではないか」。「☆」は「たんにここにあるだけ」であり「そもそも理由などというものは不要」なのだ。たぶん、〈わたし〉が認識できるのはそこまでなのだ。その地点から〈わたし〉ではなく、フラグメントが旅をしだすのだ。

だから、『あるまじろん』という歌集はもしかしたらウッドストックの「☆」が「☆」であるとはどういうことか、それが〈わたし〉のなかでだけ完結しない場合、どのように〈旅〉をし、しそこねるのかを探る歌集なのかもしれない。

短歌が、旅をするとはどういうことなのか。この歌集の「ぽ」がずっと《ただたんにそこに》「ぽ」でありながら、あらゆる解釈を受けて、旅をしてきたように。

ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽと生活すポポポポニアの王侯われは  荻原裕幸

非意味的過剰の「ぽ」に埋もれた「ポポポポニアの王侯」はもしかしたら「世界はたんにここにあるだけではないか」と喝破した「マクベス」かもしれない。かれは、「うんざり」と「ぼんやり」によって「意味という病」を克服し、「ぽ」や「☆」を「ぽ」や「☆」として生きようとしていた。「世界は意味もないが不条理でもない」とマクベスはぼんやりと、しかしはっきりと思った。そのときもしマクベスが短歌を詠んだらこんな歌になっていたのではないかと、思う。いや、きっと、そうだ。

んんんんん何もかもんんんんんんんもう何もかもんんんんんんん  荻原裕幸

(荻原裕幸「あとがき」『あるまじろん』沖積舎、1992年 所収)

0 comments: