2016-10-23

あとがきの冒険 第13回 穂村弘・わたしはまちがっている・雪舟えま 『ユリイカ 特集*あたらしい短歌、ここにあります』のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第13回
穂村弘・わたしはまちがっている・雪舟えま
ユリイカ 特集*あたらしい短歌、ここにあります』のあとがき

柳本々々


『ユリイカ 特集*あたらしい短歌、ここにあります』の「編集後記」には編集の Yu さんが短歌にふれるきっかけになった次のようなことが書かれている。引用してみよう。
短歌に惚れたきっかけは確かに憶えている。穂村弘さんの『シンジケート』に収められた一首「ちんちんをにぎっていいよはこぶねの絵本を閉じてねむる雪の夜」ーーこの静かな、それでいてすぐにも振り切れそうな未知のやさしさに、私は完全に不意を突かれたのだった。
わたしはここで Yu さんがこの穂村さんの短歌に惹かれることになった「振り切れそうな未知のやさしさ」という言葉にこの短歌に対するひとつの的確なイメージがあるように感じた。それは「にぎっていいよ」という象徴的な「やさしい」《去勢》のイメージである。

短歌はいうまでもないが、なにかを発話しようとするとき、いったん定型をかいくぐらなければならない。 つまり、わたしたちは31音の足かせをつけられるわけだが、その時点でわたしたちは《万能な発話者》であることを挫折させられる。いわば、発話の不能者になるのだ。

定型とはその意味で、一回一回が象徴的な言葉の《去勢》なのではないか。言葉の万能感が他者にたいして指し示され、発話者は思い通りに言葉を使えなくなること。それが定型詩なのではないか。

穂村さんの歌を少しつっこんで解釈してみよう。状況設定として「はこぶねの絵本を閉じてねむる雪の夜」という場面設定がこの歌では語られていた。この場面をあえて今回の文章の主旨にもとづいて解釈するならば、これは「想像(界)=イメージ=想像的なもの」の機能停止ということになる。「《絵》本を閉じてねむる」とはいっさいのイメージがいったん断たれるということだ。

イメージが休止した今、言葉の万能性が出てくるかもしれないのに、その言葉の万能性はすでに不能感に陥っている。というよりも、それは「にぎっていいよ」とその選択は他者にゆだねられた。

でもどこかで「ちんちん」と言葉の主体性を同じレベルで語ることに違和感があるのもたしかだ。わたしは《ひどく》まちがっているかもしれない。

なめらかにちんちんの位置なおした手あなたの過去のすべてがあなた  雪舟えま
(「旅芸人の記憶」『たんぽるぽる』短歌研究社、2011年)

この歌では穂村さんのような他者に提出するというよりは「位置」に《どう》対処したかということが歌われている。それを《よそ》に逃がさないで「あなたの過去のすべてがあなた」として《あなた自身》の枠内で責任をもつように、と。

〈このわたし〉が偏差をもってなにかを語るときに、でもその語ったものは〈このわたし〉が〈わたし〉の「位置」性として、「ここ」性として、引き受けなければならないということ。わたしはあらゆることを語れないのに・わたしはあらゆることを語ろうとする。「ここ」を無視して。でも、短歌は、いつも、その「不意」を「突」く。

とても私。きましたここへ。とてもここへ。白い帽子を胸にふせ立つ  雪舟えま
(「道路と寝る」前掲)

(Yu「編集後記」『ユリイカ 特集*あたらしい短歌、ここにあります』2016年8月号 所収)

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