2016-11-20

新連載 評論で探る新しい俳句のかたち(1) 現在の俳句、そのルーツ 藤田哲史

新連載
評論で探る新しい俳句のかたち(1)
現在の俳句、そのルーツ

藤田哲史


はじめまして。もしくは、おひさしぶり?どんな言葉で「週刊俳句」に書こうか迷ったけれど、ご無沙汰です。「週刊俳句」の読者のみなさま。

改めて、今、俳句について考えてみたい。とはいえ、流行りのサブカルと絡めた批評家らしい批評は書けない。作家論―――もいいけれど、「週刊俳句」を含め多くのメディアに掲載されているので、ちょっとニッチなところを突いて(最近あまり見かけない?)本質論を試みたい。

本質というと大ざっぱすぎるかもしれない。今考えたいのは、現在作られている俳句のルーツだ。

現在、私たちは、俳句総合誌で、俳句結社誌で、ウェブで、最新作たちを目にしている。それぞれの作品には、作家性や個別性があり、そこから作家や世代についての評論が生まれてくる。けれども一方で、全体から感じとることができる印象がある。この印象は、「切れ字」や文語的表現から得られる印象ではない。それは、例えば、いつか教科書で見た江戸時代の発句(与謝蕪村の「愁ひつつ岡にのぼれは花茨」、小林一茶の「雪とけて村いつぱいの子どもかな」)や、近代の俳句(正岡子規「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」)とはまた異なるものだ。

水の地球少しはなれて春の月     正木ゆう子
空へゆく階段のなし稲の花      田中裕明
くろあげは時計は時の意のまゝに   髙柳克弘
心臓は光を知らず雪解川       山口優夢

ゼロ年代を中心に、これは、と思う4作品を示してみた。俳句というジャンルが従来培ってきた文脈=本意を意識させつつ、それとは異なる文脈が1句のなかに収まり、1句ではっきりと1つの世界を立ち上げないような構成―――これらに共通する印象は、現在の俳句全体から感じられる印象=現在の俳句らしさと言えないか。

この現在の俳句らしさを、良いとも悪いとも判断することはできない。どんなジャンルであっても、ある形式が洗練され、1つの解に収束していくことはよくあることだからだ。

けれども、気になることがある。

「その解はあくまで1つの解であって、他にも解があるかもしれない」

もし、現在の俳句とは別の俳句の「解」があるとしたら―――そんな大掛かりな仮定に評論で応えてみたい。そのためには、まず現在の俳句のルーツを探る必要がある。なぜか。現代の俳句らしさが定まっていく表現史の分岐点に、もう1つの「解」のヒントがあるはずだからだ。ごく当たり前に目にしている現代の俳句表現からだけではわからなかった、俳句表現を俯瞰して見る目。もし、そんな目が手に入ったら、新しい俳句表現のかたちもまた見えてくるのかもしれない。



 ―――と、書いてみると、なかなかオオブロシキな感じ。うぐ。でも、がんばって続けたいと思います。

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