2016-11-27

評論で探る新しい俳句のかたち(2) いったん芭蕉と子規を忘れてしまう、ということ 藤田哲史

評論で探る新しい俳句のかたち(2)
いったん芭蕉と子規を忘れてしまう、ということ

藤田哲史


俳句のルーツを探るなかに、新しい俳句表現のヒントを探していくウェブ連載記事「評論で探る新しい俳句のかたち」。

なかなかの大口っぷりではじまった連載だけれど、正直なところ、どういった切り口で語りはじめればよいか、まだ迷っているところもある。

たとえば、いま真面目に俳句のルーツ、つまり俳句の文学史を書いていこうとすると、近世俳諧では、芭蕉・蕪村・一茶、近代以降だと、正岡子規・虚子―――というようにそれぞれの時代の代表的な作家を挙げて、それぞれの作家の文学的功績を挙げていくことになるだろうか。

けれど、このようなやり方で俳句をいくら丁寧に語っても、現在の俳句とのつながりや、新しい表現へのヒントを探ることはむずかしい。なぜなら、ふつう、ほとんどの文学研究の目標というのが、表現の形式自体の理解でなく、表現した作家個々への理解だから。芭蕉が「奥の細道」で何を表現したかったか、子規のいう「写生」とは何だったか、という問いが各研究者の目標であって、それらの文学論を繋ぎ合わせたような文学年表を作成して、それがそのまま表現形式についての理解になるか、といえばとてもあやしい。

これまでの俳句評論が、新しい表現のかたちをほのめかすことができなかったのは、ひょっとしてこういった文学の本質的なところが関わっているんじゃなかろうか。

そこで、ここでは、俳句表現自体を語るため、芭蕉や子規をいったん忘れることにしようと思う。

俳句を語るため、俳句にとって欠かせない作家を忘れる、というのは、奇妙に聴こえるかもしれないが、作家の個性のような、本質論にとってノイズとなるような要素、いわば文脈をいったん脇に置いたほうが、表現の本質を語るうえではじつは都合がよいのではなかろうかというのがこの考えの要だ。

 空へゆく階段のなし稲の花  田中裕明

ここで、あらためて、先週現在の俳句として挙げたものを挙げてみる。先週、この俳句を「俳句というジャンルが従来培ってきた文脈=本意を意識させつつ、それとは異なる文脈が1句のなかに収まり、1句ではっきりと1つの世界を立ち上げないような構成」と評した。

もし、この田中裕明の代表作をいかにも文学らしく捉えるなら、高浜虚子の弟子・波多野爽波の弟子である田中裕明という系譜による鑑賞や、詩人高橋睦郎による「伝統派の貴公子」という評、また「稲の花」という季語の意味などを解説しながら、上五中七の「空へゆく階段へなし」という意外性のあるフレーズを称えることになるだろうか。

けれども、1つの作品についてその背景を含めて詳しく鑑賞すればするほど、俳句表現自体からは遠ざかっていく気がするのは私だけだろうか。

だからこそ、この連載では、作家性などの諸々の背景=文脈を取り除いたときにあらわれるもの=構造を基に俳句表現について語っていこうと思う。

作品にまつわる一切の文脈を脱がせたときに見えてくる表現の骨格たる構造。それは、決して見えないものではない。文脈の存在によって気づきづらかっただけで、ずっとそこにあり、私たちに見えていたはずのものだ。構成から俳句表現を語り直す―――次回以降、さしあたり、このあたりのことをテーマに書き進めていこうと思う。

眼に見えないものを見る
あれは撃鉄をひいたことのない
群小詩人の戯言(たわごと)だ
眼に見えないものは
存在しないのだ
(「ある種類の瞳孔」 田村隆一 より)

1 コメント:

圓楽 さんのコメント...

ここで田村隆一はどうなのか。
『言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって』(田村隆一「言葉のない世界」)
つまり田村は書かれた言葉の向う側を問題としていたわけで、目に見える構造を超えたところに詩があるということだ。
『眼に見えないものは存在しないのだ』というのは「ある種類の瞳孔」に対する反語だということに注意したほうがいい。