2016-12-25

あとがきの冒険 第19回 生駒さん・杉崎さん・ながやさん ながや宏高『かばん』2016年12月号のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第19回
生駒さん・杉崎さん・ながやさん
ながや宏高かばん』2016年12月号のあとがき

柳本々々


先日、生駒大祐さんとお話させていただいたときに〈終わり〉をめぐる話になった。そのとき、〈終わり〉というのは〈はじまり〉をめぐる話でもあるんですよね、という話になったと思う。

そうですね、と私は言った。私は立ち上がる。生駒さんが立ち上がったのである。私は階段をのぼりはじめた。急な階段だったのである。ここで転げて、生駒さん助けてください、とはさすがに言えない。手すりはなかった。私は、めまいがした。

そのとき考えていたのは、ひとは、いったいいつ「こんにちは」を言うのだろうか、ということだった。

たとえばもし「あとがき」においてはじめて著者の〈素顔〉をもった言葉にふれうるならば、わたしたちは本の最後において作者から「こんにちは」を言われることになる。歌集や句集の最後で、「はじめまして。わたしです」と。もちろんそれは同時に「さようなら」でもある。「あとがき」でその歌集や句集は終わるのだから。

『かばん』2016年12月号のながや宏高さんの「編集後記」はその意味で面白い構成になっている。文章の九割方、杉崎恒夫さんの短歌をめぐる話が終わったところでとつぜん最後に、
さて、こんにちは、編集人のながや宏高です。
と「ながや」さんが顔を出すのである。「あとがき」の最後において言われた「こんにちは」。しかもこの「こんにちは」にはある特別な意味が負荷されている。

ながやさんの今回の「編集後記」は杉崎さんのこんな短歌をめぐるものだった。

みかん色の灯のつく町に帰りくるこんにちの死をパスした人ら  杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

この歌には「こんにちは」ならぬ「こんにち」という言葉が奇しくも歌の終わりに出てくる。この「こんにちの死」を「パス」したところに明日への〈始まり〉がある。〈終わり〉をかいくぐって生まれる〈始まり〉。

ながやさんはこう解説している。
死の可能性がある日々の中で、今日、自分は死なずに生き残ることができた、という実感から生まれた一首なのだと思います。
〈終わり〉を通してはじめてやってくる〈こんにちは〉。その杉崎さんの短歌の終わり=始まり構造は、ながやさんの終わり=始まり構造をもつ「編集後記」に入れ子構造として反復されたのだ。

しかしわたしたちはこの構造に実は非常に〈馴染み〉があるのではないか。わたしたちは生まれてから、本を読むたびに、本の「あとがき」を読むたびに、一冊一冊それを〈経験〉してきたのではないか。

「あとがき」においてはじめて出会えた作者の〈素顔〉に。はじめて言われた「こんにちは」に。

「こんにちの死」をパスした人らの「こんにちはの生」。

あらためて、「あとがき」とは、なんなのだろう。

私は初回に「あとがき」とは未来に向けて書かれた言葉だといった。それを書いてから、私は後に、生駒さんや杉崎さんやながやさんに出会った。だから、今年の終わりに、こんなふうに初回のことばを言い換えてみようと思う。

あとがきとは、たえず遅れてやってくるこんにちは、のことだ。

(ながや宏高「編集後記」『かばん』2016年12月号 所収)

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