2016-12-18

評論で探る新しい俳句のかたち(5) 「前衛俳句」が難解である理由 藤田哲史

評論で探る新しい俳句のかたち(5)
「前衛俳句」が難解である理由

藤田哲史


華麗な墓原女陰あらわに村眠り   金子兜太

ここに挙げたのは、昭和30年代、「前衛俳句」全盛の時代の作品だ。金子兜太の自解によると、「抽象的な論理の糸目と具体的な風景との交錯したおぼろげな構図」のある作品とのことだが、いったい、印象明瞭な近代俳句と異なる「前衛俳句」は、どんな言語観から生まれたものなのだろうか。難解という形容で語られる「前衛俳句」は、「イメージ」「暗喩」「象徴」「あいまい」などのような言葉で評されてきた。ここで、あらためて、いくつかの作品について分析を試みてみたい。

まずは、冒頭に挙げた「華麗な墓原~」の作品。一見字余りで名詞が詰め込まれて、とっつきにくい感じもするけれど、この作品の大まかな構成は、墓原と村の対照にある。ここでは、季語がないことも少し脇においておく。意味のうえでの構造は、言ってみれば対句だ。墓原が暗示するのは死、一方の村が暗示するのは生。もっと補完して説明すれば、墓原の後部において、なんらかの動詞(穏当なものを挙げれば「あり」など)が省略されていて、修飾部・名詞・動詞の3つの部分からなる連なりが2つ対置されている、と見ることもできるだろうか。

①華麗な    + 墓原 + (省略された動詞)
②女陰あらわに + 村  +  眠り

ここで①と②を比較してみると、全体として対称的な構成なのにもかかわらず、修飾部分に大きな違いがある。①の修飾部「華麗な」が、抽象的な語彙であるのに対して、②の修飾部「女陰あらわに」と具象的な語彙が用いられている。この「女陰あらわに」が、作品全体構成の均整を崩すことによって、読者の注意を喚起する。しかも、このフレーズが「墓原」と「村」といった遠景をイメージさせる語句の間に挿入されていることで、ある眼前の景色を現したもの、という読み方が斥けられることにもなる。

この修飾部における具象的な語彙の挿入は、「前衛俳句」以前において見られた語彙の組み合わせ、たとえば、

夏草に汽罐車の車輪来て止る   山口誓子
七月の青嶺まぢかく熔鑛炉    山口誓子

における、「夏草」と「汽罐車の車輪」、「青嶺」と「熔鑛炉」の組み合わせとを比較すると、大分に様子が異なる。誓子の作品では、「汽罐車」「熔鑛炉」といった当時としては新奇な語彙が、季語と巧みに組みあわされ、ある視点からの観察を追体験させるような構成をとっている。これに対し、金子兜太の「華麗な墓原~」の作品で、「華麗な」と対置させられた「女陰」は、もはや「墓原」や「村」と同一の時間・視点から捉えられないものだ。この修飾句は、村の性のありようを具体化しつつ、一方で比喩としてのはたらきをも期待されることになる。

広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み   赤尾兜子

赤尾兜子のこの作品はどうだろう。この作品も構成から把握してみれば、「広場における裂けた木」という前段と「塩のまわりに塩軋み」という後段に分かれて成り立っていることがわかる。この作品の前段における「木」、は雷か台風か、何かの原因で裂けてしまい、やがて枯死してしまう存在だ。後段における「塩」もまた、塩化ナトリウムという一物質だ。作品を通して感じられる印象は、無機的、非人間的といえる(「今日の俳句」で金子兜太はこの作品を「虚無」と言い表している)。

とはいえ、この作品を一語漏らさず説明するのはむずかしい。その原因の一つが、最後の一語「軋み」にある。「軋み」という語彙により、「塩」が塩湖や岩塩層のようなスケールの大きな塩でなく、より微細な、塩の粒子の集まりを強く連想させる。これにより、前段と後段が意味のうえで直接的につながっているのではなく(あるいは、つながっているばかりではなく)、前段の主題を全く別の言葉により言い換えられている、あるいは前段に対する比喩としてのはたらいている―――などの関係性が推察されることになる。

しかしながら、困ったことに、前段と後段との関係性を明らかにするヒントは作品からは得られない。つまり、読み手は、前段と後段の関係性について全ての可能性を意識しながら読み解くことを強いられる。


印象明瞭であることを斥けること。むしろ、それによって言葉の詩的はたらきを引き出すこと。「前衛俳句」を読み解く鍵は、おそらくこのあたりにある。


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