2016-12-25

評論で探る新しい俳句のかたち〔6〕 果たして「前衛俳句」は進化形だったのか 藤田哲史

評論で探る新しい俳句のかたち〔6〕
果たして「前衛俳句」は進化形だったのか

藤田哲史



「前衛俳句」という半世紀以上前の熱気を私は知らない。けれども、知らないからこそ書けるものもある。

たとえば、金子兜太は「造型俳句六章」の中で、次のように書いている。

たとえば具体的な事物―石とします―が構図のなかに入っていても、その石は視覚的な石というより、論理的な(つまり意味を濃く帯びた)石になっている、ということです。
ちょっと難解だが、言葉が言葉のままに読まれるとき、その言葉は、現実世界に存在する特定の事物を必ずしも意味しない、と解すことができるだろうか。そして、この言葉は、そのまま俳人富澤赤黄男の有名な言葉「蝶はまさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではない。」に通じている。

ここにある言語観は、赤黄男・兜太以降、何人もの作家が実作で示してきて、現在においてはごくごく自然に受け入れられている言語観なのかもしれない。一方で、これらの言葉の存在が、なぜ当時書かれなければならなかったか? を考えるとき、当時の時代状況が照らし出されてくるようで、おもしろい。
 
 「造型俳句六章」で、兜太は、子規以降の表現の変遷を踏まえながら、それを進化させた方法として「造型」を示した。そして、「造型」の方法によって作られた作品では、言葉のはたらきが従来のものと異なることを説いた。

 「造型俳句六章」の六章の内容は、次のとおりになる。  
第一章 主観と描写:主題(主観)と方法(描写)に分けて考えられる近代俳句について第二章 描写と構成:水原秋桜子の「文藝上の真」以降意識的になった方法の展開(描写から構成へ)について第三章 構成の進展:方法の展開にともなう主題の変化(主観から主体へ)について第四章 主体:現代俳句の一傾向である主体的傾向(三鬼・赤黄男・窓秋(新興俳句運動の作家達))について第五章 象徴:主体的傾向以外の傾向である象徴的傾向(草田男・楸邨)について第六章 造型―主体の表現―:自身の俳句を含む主体の表現(主体を意識した主体的傾向=造型)について
「造型俳句六章」では、まず近代俳句を主題と方法に分けて捉え(第一章)、方法の展開(第二章)と方法の展開にともなう主題の変化(第三章)を示したうえで、当時の作家を、主体的傾向(第四章)と、象徴的傾向(第五章)に区分し、最後に主体的傾向の方法論の一つとして造型を提唱する(第六章)。

この稿のはじめに挙げた「たとえば具体的な事物~」のくだりは第六章の一部だ。各章を順序立てて読んでいくと、俳句表現がどのように進化してきたか、という点が強調されてしまいがちだけれど、そこで挙げられている「造型」による作品を注意深く読んでいけば、それらの作品が、ある時間・ある場所で見た事物を言葉に置き換えた結果として作品が作られている、という近代俳句ならではの読み方からはっきりと訣別していることがよくわかる。

もちろん、「造型俳句六章」が「前衛俳句」を総括している評論とはいいがたい部分もある。「前衛俳句」作家全員が創作において「主題」を持ち得ていたかどうかについては心もとないし、「前衛俳句」の作品のなかには、もはや現実の事物云々だけでなく、イメージを一切喚起させないよう意図された作品すら存在する。けれども、そのような点を全て差し引いたとしても、「造型俳句六章」によってもたらされた作品の読み方・読まれ方は、近代俳句に対してのそれとは全く異なるものだったということは言えると思う。

 

兜太とは別のところから。「前衛俳句」の代表的な作家の一人である赤尾兜子は、永田耕衣「虎がこすつたぬくい鉄棒味噌汁の中」に対して次のような鑑賞を残している。
この句は「虎のこすつたぬくい鉄棒」で切れて、ここで一つのイメージができ、「味噌汁の中」がもう一つのイメージです。この句はこの二つのイメージから構成されている。(中略)この二つのイメージが重なって第三のイメージに進展する。この二つのイメージの結合がはっきりしていないと極めて難解だということになるのでしょう。そこでこの第三のイメージにまで手が届く読者が何人いるかということが問題となる。これを難解というなら、それは俳句観の違いから来るズレですよ。
ここでの兜子の鑑賞の重点は、いかに現実をよく写すことができたか、ではなく、構成された語彙の一つ一つがどのようにはたらいているか、に置かれている。ここで、むしろ私は、耕衣の作品が明らかにある時間・ある場所で見た事物を言葉に置き換えた結果として捉えることができないことに注目したい。「前衛俳句」の登場、それは、それまでの俳句の進化形なのではなく、全く別箇の詩の登場と言えたのかもしれない。

1 コメント:

くらた さんのコメント...

たとえばの話、人間はアメーバのような生物から「進化した」といえるのだけど、アメーバと人間は「まったく別個」の生物ともいえるのであって。相違点をみるか、共通点をみるかということですよね。