2017-01-22

あとがきの冒険 第20回 斡旋・素手・黒板 樋口由紀子『川柳×薔薇』のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第20回
斡旋・素手・黒板
樋口由紀子川柳×薔薇』のあとがき

柳本々々


川柳を書くことによって、意味がきゅっきゅっと音をたてる。その音を聞きたいために、私は川柳なのだろう。(樋口由紀子「はじめに」『川柳×薔薇』ふらんす堂、2011年)
2017年1月5日『神戸新聞』の「新子を読む 新子へ詠む 時実新子没後10年 〈3〉」において樋口由紀子さんは、時実新子さんの川柳を「何よりも句と作者を重ねようとする読者の習性を逆手にとった言葉の斡旋(あっせん)、組み合わせがうまかった」と評した。

実はこのシリーズの最終回の5回目に私も出させていただいたのだが、その5回目で話した内容は樋口さんのこの「言葉の斡旋」がベースになっている。この「言葉の斡旋」は樋口さんが『川柳×薔薇』(ふらんす堂、2011年)においてすでに書いていたものだ。私はそれを読んで川柳に対する現在の自分の読み方のベースをつくった。今でも何か立ち止まったり悩んだりすると樋口さんのこの本をひらいている。該当個所を引用してみよう。
時実新子の川柳が人をひきつけたのはありのままの思いを吐いたからではない。作品を鑑賞する上で作者と重ね合わせて読もうとする川柳人の習性を逆手にとって、それを有効利用した言葉の斡旋が新子は上手かったのである。(樋口由紀子「川柳における「私性」について」『川柳×薔薇』ふらんす堂、2011年)
私がこの本をはじめて読んだときに強く惹かれたのがこの箇所だった。「思い」を〈読む〉ということは実はなかなかに難しい。おまえにこのひとの思いがわかるのか、と人生をたてにされてしまうこともあるし、みずからの思いを投影=転移しすぎてしまう恐れもある。しかし、〈言葉〉からなら誰でも・きょうから・素手で〈読み〉に挑戦できるのではないか。〈思い〉がない日はあるかもしれないけれど、〈言葉〉がない日はないだろうから。

樋口さんが書かれていたのは、新子さんの〈言葉の斡旋〉、言葉を読者に仲介していくそのパワーのことだった。言葉と言葉が出会うその接合地点を新子さんの川柳はまさぐっていた。

しかし実は言葉と言葉が出会うそのダイナミズムをまさぐっていたのは、まさにこの現代川柳を一望する『川柳×薔薇』という本そのものだったのではないか。

ひとは〈思いの読み〉を通してではなく、〈言葉の読み〉をとおして、みずからの言葉のありかたを開示する。そしてその開示によって、言葉をとおして、新たな言葉がたちあがるのを待機する。あなた、の。
川柳に関わりをもってからもうすぐ三十年になろうとしています。いままで川柳をやめようと真剣に考えたことは一度もありません。体質的に川柳に向いていたのかもしれません。
「体質」とは実は「器質」の問題なのではなく、「言葉」の問題なのかもしれない。「言葉」をわたしがいま・どこで・どんなふうに測位しようとしているのかという、「ことば」のもんだい。そしてその「ことば」は「からだ」にどこでであうのか、という出会い(アクセスポイント)の問題。

ひとつの答え:黒板。
黒板に名前を書いて眠ろうか  樋口由紀子(『容顔』詩遊社、1999年)

(樋口由紀子「あとがき」『川柳×薔薇』ふらんす堂、2011年 所収)

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