2017-01-15

評論で探る新しい俳句のかたち〔8〕 あえて「切れ」を言い換えることの意味 藤田哲史

評論で探る新しい俳句のかたち〔8〕
あえて「切れ」を言い換えることの意味

藤田哲史


ここまでのところで、私は、構造をキーワードとして俳句について書きついできた。現在の俳句は、構造の観点から見れば、その不連続性に特徴があり、これが複雑な読みを誘うものとなっている、と。けれども、俳句についてよく知っている人からすれば、それは一句の中の「切れ」のことだろう、とそっけなく返されるのかもしれない。たしかに、ここで考えていることは、俳句でいう「切れ」を再考する試みとも言える。

俳句における「切れ」という言葉は、たとえば、次のように使う。

秋風や手を広げたる栗のいが   松尾芭蕉

ここでの「秋風や」の「や」は「切れ字」であって、この後に意味の「切れ」がある。「秋風」と「手を広げたる栗のいが」は意味上のつながりはなく、二つのフレーズが響きあう―――というような具合だろうか。また、ある場面では、強い「切れ」、弱い「切れ」、「切れ」ていない、などその構造の不連続性を強弱で表すこともある。現在、俳句の鑑賞や解説で「切れ」という言葉は頻繁に登場する言葉の一つだ。

一方で、その使用頻度に比べ、「切れ」という言葉の核心について考える文章はそう多くない。

もちろん、作者にしてみれば、俳句を隅から隅まで理性的に読み解いてもらうことを想定はしていないだろうし(直観的に享受してもらいたい思いはあるだろう)、また読者にしてみても、俳句独自の構文を読み解き方を「切れ」という言葉で一度納得できれば、それ以降ことさら「切れ」を意識して読むこともない。

ただ、俳句の「切れ」と言ってピンと来るその感じが、俳句独自のものとして捉えるのか、それとも単なるコツ程度のものなのか、という違いは、決して些末なことではないと思う。「切れ」が普遍的な言葉のはたらきの一つでないかどうかは、俳句の本質に深く関わってくる。

もし「切れ」が俳句独自のものだとする考えをより厳しく突き詰めていくと、誰かからの伝授なく俳句を作ることはできないものとする考えに行き着くだろうし、普遍的なものとするなら、世界に存在する全ての言語で、散文よりも短い最短詩形が成立するのだ、という主張につながる。

また、「切れ」が俳句独自のものだとする考えは、俳句形式が文語を軸として洗練されてきた歴史的経緯と合わせると、自然に現代の日本語と俳句形式が馴染まないという考えにも結びつきやすい。

「切れ」は俳句独自の概念か、それとも普遍的な言語のはたらきの一つなのか。俳句という形式の本質を語るうえで、避けられないもののひとつだ。



ところで「切れ」という言葉を歴史的にさかのぼると、少なくとも鎌倉時代までさかのぼることができる。その時代にはもちろん俳句というジャンルはない。和歌のうち、上の句と下の句が別の作者によって作られはじめ、それが連歌という名前を付けて呼ばれはじめていた。和歌から別の形式として連歌が確立したころだ。

このころ、順徳院の歌論書『八雲御抄』に「発句は必ずいひきるべし」とあり、後ろに続く七音七音なしに五音七音五音が成立しなければならない、といった意味のことが書かれている。ここでの「切れ」は五音七音五音がそれだけで成り立つという意味であって、「秋風や手を広げたる栗のいが」の「秋風や」のあとにあるとされる、一句の中の「切れ」、現在よく使われる「切れ」とは異なる。

「切れ」という言葉が現在よく使われる一句の中の「切れ」を指すことになるのは、これよりも後のことになる。ただ、一句の中の「切れ」が意識されるずっと前から「切れ」が存在していたこともあって、「切れ」という概念がとてもわかりにくく、誤解を招きやすい用語となっているふしがある。

実際に、「切れ字」の「や」を用いているからといって、その後ろで必ずしも「切れ」るとも限らない俳句は存在する。

流燈や一つにはかにさかのぼる   飯田蛇笏

この作品では、流燈のうちの一つが急にさかのぼりはじめたと解するのが適切な読み方だろう。一句の中の「切れ」の有無と「切れ字」の「や」の有無とは、全く別のものだ。

ここで指摘したかったのは、「切れ」という用語に頼ることで、俳句の本質が見えにくくなってはいないか、ということだ。作品を享受するぶんには問題がないけれど、こと本質を語るために「切れ」という用語が果たして適切だろうか。

使う言葉は世界の捉え方を律する。

私たちはふつう虹の色の数を七つあると考えていて、それぞれの色を赤、橙、黄、緑、青、藍、紫という色で表す。ところが、世界のあるところでは、虹の色数を五つ、三つ、二つと捉えているところもあるらしい。世界の中には、私たちが黄と緑を別のものとして捉えるところを同じものとして捉えている人もいるのだ。もしかしたら、そのような人たちは、私たちが銀杏の葉が緑から黄になることに心動かされているところを見て、不思議がるのかもしれない。

俳句における「切れ」を「切れ」として語るのではなく、「切れ」を別の言葉として言い換えることで、単なる言い換えにとどまらない、今までとは全く異なる俳句の捉え方ができるようになるかもしれない―――と、これはあくまで可能性の一つでしかないのだけれども。

2 コメント:

九堂夜想 さんのコメント...

藤田哲史様

ご無沙汰しております。
貴兄の「切れ」論、興味深く拝読させていただきました。
以前、LOTUS同人の志賀康が『山羊の虹 切れ/俳句行為の固有性を求めて』(邑書林 2011)という「切れ」についての本を出されています。
http://livedoor.blogimg.jp/lotus_haiku/imgs/9/d/9dac26de.jpg
貴兄の「切れ」考察の参考になるかもしれません。

九堂夜想拝

藤田哲史 さんのコメント...

九堂夜想さま

コメントいただきありがとうございます。
藤田哲史です。たいへんご無沙汰してします。

連歌論・俳諧論だけでなく、
山本健吉や外山滋比古などの文章を
チェックしたうえで書いてはいるのですが
紹介いただいた本は未チェックでした。

一度読んでみたいと思います!