2017-01-22

【句集を読む】 言葉の培養 田島健一『ただならぬぽ』 福田若之

【句集を読む】
言葉の培養
田島健一ただならぬぽ

福田若之


田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂、2017年)は、開かれるページの上でその言葉を培養する。

ふりそそぐ案山子悲しみ神のいしき
忠実な嫁の嫁菜の読めない愛


「案山子悲しみ神のいしき」のつながりは、「案山子」と「悲しみ」は、カ行音およびサ行音とイ列音の連鎖によって、ただただ「神のいしき」という言葉が生まれることに費やされたように見える。「神のいしき」という言葉が生まれることこそが、あらかじめ期待されていたことであったかのように思えるのだ。言い換えれば、ふつうの言葉がその増殖の過程で、突然変異を起こすようにして、不思議な言葉の発生をもたらすという事態に向けて、一句がはじめから方向づけられていたかのように思えるのである。同様のことが「嫁の嫁菜の読めない愛」についても言える。「嫁」が「嫁菜」の発生を、「嫁菜」が「読めない愛」の発生をもたらしている、そのことが、あらかじめ方向づけられていたかのように一句が展開しているのだ。

そこで発生が期待されるのはいつでも不思議な言葉である。

ふたしかな冬ざれふたりいる不思議
海みつめ蜜豆みつめ眼が原爆


「ふたりいる不思議」という不思議な言葉が「ふたしか」と「冬ざれ」から、そして「ふたしかな冬ざれ」という不思議な言葉から、発生する。「海」のミ音から「みつめ」が生じ、「みつめ」から「蜜豆」、そして「蜜豆みつめ」と言葉が増殖していき、その「め」の音が「眼が原爆」という不思議な言葉をもたらす。

結果的に生じるそれらの不思議な言葉は、書き手自身によって、最初の語にすでに胚胎しているものとして捉えられている。そのことは次の句に見て取れる。

胃に森があり花守が泣いている

音の上では、"hanamori"に"mori"が、"mori"に"i"が包含されているのだが、この句はそれを逆に捉え、「胃」に「森」があらかじめ含まれており、「森」に「花守」があらかじめ存在しているかのように語るのである(この「胃」、「森」および「花守が泣いている」の関係は、たとえば、「嫁」、「嫁菜」および「読めない愛」の関係とも対応する)。「花守が泣いている」という不思議な言葉は、「胃」にあらかじめ胚胎されたものであるかのようだ。

だが、それはもちろん突然変異である以上、 ある確率に賭けて繰り返される実験のうち、限られたいくつかにおいてたまたま示される結果であるのだろう。不思議な言葉は、言葉の海に突然に生じる。

「ぽ」、と。

ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 

「ただならぬ海月」という、不思議な、ただならぬ言葉の発生。「ぽ」はその突然の発生を印づけることによって、それ自体、ただならぬ文字となる。この「ぽ」の起こらなかった句が、『ただならぬぽ』の外に、きっと数多く捨てられたことだろう。

思うに、田島健一にとって、俳句を書く作業というのは《無限に無垢につづく足し算秋澄む日》と書かれたこの「無限に無垢につづく足し算」そのものなのではないか。つまり、ある確率に従って起こる突然変異に期待しながら、次々に増殖する言葉を、手垢のつかないかたちで次々に書き加えていく行為が、この書き手にとって、一句を書くということなのではないか。

一句を書くことは、もちろん、単にそうした言葉の培養であるにとどまらない。それは、《かまいたち京都にまぼろしを殖やす》という句に語られている、まぼろしの培養、すなわちイメージの培養でもあるのだ(「京都」もまた、「けむり」から生まれたまぼろしなのだった――《けむりから京都うまれし桜かな》。そして、「けむり」は「ふたしかな鶴」から生じている――《去れよ闇ふたしかな鶴からけむり》)。ただし、その増殖したイメージは、もはや単なるまぼろしにはとどまらない。《架空より来て偶然の海へ蝶》という句に示されている通り、「蝶」という言葉は、言葉の突然変異という「偶然」が展開される空間としての「海」に到来するとき、すでに「架空」ではない。その意味で、「蝶」はまさにこの「蝶」でしかないのだ。

「蝶」が到来する『ただならぬぽ』の「海」には、突然変異によって生じるあの「ただならぬ海月」とはまた別に、いまだ肉化されない無限で無垢のまぼろしたちに輪郭を与え、そのおわりを決定づける生物が棲まっている。それが「鯨」ないし「くじら」である。

連想ゲームのおわりは晴れて鯨かな

「鯨」は、言葉の類似から偶然によって展開される「連想ゲーム」としての足し算に、そのおわりを導入する。この「鯨」の存在によって、〈句〉が可能になり、同時に〈句集〉が可能となるのだ。「詩」としての一句を「何度も何度も」書くことができるのは、それが終わりをもつものだからである――《末期まばたき何度も何度も鯨の詩》。この世に具現した一切の詩は、例外なくこうした「鯨の詩」にほかならない。そうした意味で、「詩」は有限の「ながさ」を持つ――《翡翠の記録しんじつ詩のながさ》。逆説的にも、それゆえにこそ、詩としての一句を書くという行為は「無限に無垢につづく足し算」となりうる。というのも、終わるものは、終わるからこそ書き継ぐことができるのであり、すなわち、「足し算」として「無限に無垢につづく」ことができるのであるから。

日にくじら永遠がいったん終わる

そして、永遠がまた始まる。

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