2017-01-01

「子連れ句会」「かぞ句会」に出て 上野葉月

「子連れ句会」「かぞ句会」に出て

上野葉月


炎環同人西川火尖さんの呼びかけでやっている「子連れ句会」に顔を出している。子育ての終わった(まあ大抵のことが終わっている)俳人である私がなぜ出席しているかといえば大した理由もなく、火尖さんが息子のおしめを取り替えたりするとき代わりに句会の司会をするというサポート役。

まあ将来孫が生まれたら孫を連れて句会に行きたいという野望(見果てぬ夢ともいう)のための下見という気分もあるのだが。

少子高齢化が現代日本の枕詞のようになってしまってからすでに長い。

そんな中、「子連れ句会」という文字面だけで、なにやら見えない敵に抗っているかのような印象も受けたりする。

もっとも子育てに忙しい時期にも句会という楽しみを手放さない風情に、「あれは俳人ではなく俳句獣だ」という懐かしい言い方を思い出すむきもあるかもしれない。

三ヶ月に一度ほどのペースの開催で、すでに三回実施されている。次回は2月25日予定。

子供のやかましさに慣れていない人にとってはとても耐えられるようなものではないが、子供たちの年齢も様々なので(生後数ヶ月から小学生まで)、小学生くらいになると幼児の相手したり面倒見たりしてもくれるので、そういう姿に妙に心癒される側面もあったりする。

そんな「子連れ句会」に触発されたのかよく知らないが、現代俳句協会青年部でも神野紗希さんの呼びかけで、同様の形式の「かぞ句会」が開催された。

こちらも向学のために見物がてら参加させてもらった。初回なのに十組程度が参加、なかなか盛況である。

出された句の内容が子供や子育てにかかわるものが多い。

「子連れ句会」では少なくとも清記用紙を見る限りでは普通の句会とは区別が付かない。要するにおしめを代える傍ら、短冊に書き込んでいるようには見えない。この辺が発起人の個性の違いなのかもしれない。

さて現代日本は、おそらく本人たちが考えている以上に、地縁血縁を排除している社会だ。いわゆるサラリーマンでは職場の人間関係だけが唯一の社会的な関わりな場合も多い。退職した人間がまったく社会的なコミュニケーションを持てなくなる例も少なくなさそうだ。たとえば俳句結社にはそういう人たちの受け皿という機能も期待されている部分があるかもしれない。

それに人口に対する一人暮らしの割合がこれほど高い社会は、世界中さがしてもそんなに多くないと思う(すみません、ちゃんとした統計を調べた上での発言ではありません)。

「かぞ句会」の企画概要で神野紗希さんは「子どもが産まれて、よくわかりました。子どもを連れて出かけられる場所が、いかに限定されているかということが。」と述べている。

今日の子育て中の若い母親は、地縁血縁が希薄で自由である分、孤独な戦いを強いられているような印象はもっぱらだ。これは一般的な任意の母親に関する思い込みで、紗希さん自身についてはあんまりそんな印象はないが。

ママ友なんて言葉が流通するのも、それだけ新しい形の地縁の必要性が多くの人に認識されているせいかもしれない。

人間という動物の子育てに必要な労力は例外的の大きく、本来子育ては母親ひとりとか核家族の両親のみの負担で遂行可能なものではなく、親族や地域社会の協力も含めて担われていたものだと思う。

都市部の勤労者家庭はやはり不利だと思える。

そういう状況は新しいものでなく、日本では少なくとも17世紀には始まっていた。

当時は農村部では人口の増加や維持は可能だったが、京阪、江戸のような都市部ではすでに子供の数は少なかった。

貨幣経済が進行し賃金労働が一般化した社会では、勤労者家庭自体の再生産は困難で貧困化するのが必然なのだろうか。

今日の日本は、ほとんど全国が都市化してしまい、ほとんどの人が賃金労働に従事して第一次産業への直接の関与は希薄だ。

少子化は必然なのだろうか、そしてそれは将来の世界の姿なのか。

個人的な記憶に依存して発言すれば、幼い子供を抱えている時期というのは、テーマが明確というか迷いが少ないというか、人生の夏とでも呼びたい季節だ。侘び寂びというものから最も遠い時期とも言える。

そんな時期の俳人たちが顔つき合わす「子連れ句会」「かぞ句会」を見て、そのひねりの利き過ぎた状況に、混乱した軽い俳味のような印象が残った。


子連れ句会関連
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かぞ句会関連
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