2017-06-18

【俳苑叢刊を読む】 第17回 阿波野青畝『花下微笑』 ぼんやりとしたほほ笑み 安里琉太

【俳苑叢刊を読む】
第17回 阿波野青畝『花下微笑』

ぼんやりとしたほほ笑み

安里琉太


青畝について書いてあるものをあれこれ捲っていると、あらきみほ著の『図説・俳句』(日東書院・2011)を見つけた。

「ホトトギス第二次黄金期」の頁には、4S、風生、青邨などの昭和初期の俳人が紹介されていて、彼らの特徴が端的に一言で書いてある。他の4Sと共に挙げると、秋桜子が「新鮮な抒情」、誓子が「即物具象」、素十が「純客観写生」、青畝が「関西特有の飄逸」といった具合である。その数頁後に青畝の生涯が記され、作風として「関西言葉の滑らかな調子から古語や雅語を駆使した独特の美と飄逸さがある」ことが書かれている。

こうした青畝の句の調子については、『現代俳句の世界5 富安風生 阿波野青畝 集』(朝日文庫・1984)の窪田般彌の序文「口調の美」でも述べられるところである。般彌は、青畝が幼少のころに耳を患ったことを念頭において、「そうした人たちのほうが、かえって音に敏感な場合もある」と述べ、「詩歌はつねに声調を主にする。金塊集は万葉調を復活して朗々と吟じられる。これは俳句においても変りないはずである」という青畝の自句自解の文言を引用し、句の調べに言及する。それから、以前、髙柳重信と話した際の「4Sのなかで本当に新しかったのは青畝先生じゃないかな」という言葉を想起しながら、次のような結論に至る。
白魚のまことしやかに魂ふるふ
「ものを見る」というのは、俳人にとって最も重要なことだろうが、私はこの句に、幻視者特有の鋭い感性を認めないではいられない。ものを見ているうちに、本質的な何かが見えてくる―この感性こそは、耳を患っていても美しい句調を奏でることができた「音楽家」の感性と同質なものであって、それ以外の何物でもない。
般彌は、青畝の作品における句調とものの見え方という二つの特徴を、「耳を患っていても美しい句調を奏でることができた「音楽家」の感性」という身体から獲得された「感性」を根拠にして、接続しようと試みている。

その一方で、般彌の印象にちらっと登場した重信も、青畝の雑誌であった『かつらぎ』(1973・4)にて、「阿波野青畝小論」を書いている。以下、その引用である。

青畝には、

水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首

のような、まずは同一時間と同一空間の枠の中で、見事な眼前の景をとらえている作品も少なくない。たとえば、

見えてゐて砧の槌のあがりけり

などもそうだが、青畝の俳句には、それを読んだ者が、あたかも、その光景を前にして、青畝の隣に立って一緒に見ているような錯覚を起こすほど、印象鮮明な作品がある。当然ながら、この句の場合、「見えてゐて」とあるから、よく見えるのではない。そういう同じ言葉があっても、読者にはまったく何も見えてこないことが多いのである。よく見えてくるのは、この一句を緊密に構築している一切の言葉が、それぞれの微妙な関係の中で、鮮明な光景を浮きあがらせているからである。
この鳳凰堂へ泳ぐ蛇も、普通ならば「泳ぐ」という、いわば日常の常識的な情報のみちびくままに、平凡に見せられてしまうところを、遂に言葉の中で何もかも見抜いてしまったように、もっとも確かに「蛇の首」が見えている。そして、これほど確かに見られてしまったからには、この「蛇の首」が、また、ある日ある時、鳳凰堂へ泳いだ蛇として、まもなく姿をかくしてしまうわけにはいかなくなり、青畝の作品の中で、したがって読者たちの心の中でも、永遠に泳ぎ続けるより他はないのである。すなわち、この蛇も、いつしか、自由な時間と空間の間を自然に泳ぐ「言葉の蛇」となりきったのである。

長い引用となってしまったが、重信も青畝の作品におけるものの見え方について言及している。句の調べという類の用語こそ用いていないが、「この一句を緊密に構築している一切の言葉が、それぞれの微妙な関係の中で」は、それらの働きを静かに示唆しているだろう。

引用した二つの論は、青畝の句の調べとものの見え方とを挙げながら、対立している。般彌が作家へ帰ってゆく論であるのに対して、重信の論が作品へ帰ってゆく論であることに留意しても、それでも、やはり両者の意見は青畝の句を読むという地点で対立してしまう。

決定的なのは、読む際の位置である。般彌が幻視者特有の感性として見られた本質を追体験的に見るべく青畝の位置に鎮座する一方で、重信はあくまで「青畝の隣に立って見ているような」、しかもそれが「錯覚」であると述べる。

寧ろ、ここで般彌に起きていることは、青畝の情報からかりそめに創造した身体を青畝と名付けておいて、その位置から幻視者特有の鋭い感性という、やはりこれもかりそめに創造した感性を据えつけて読んでいる。般彌の場合、こうした身体のイメージに有機的な印象を付与すべく用いられているのが句の調べであって、般彌自身が舌頭に千転する行為を通して、自らの身体の体験をかりそめに創造した身体へと接続する、いわば積極的に倒錯する契機として用意してあるに過ぎないのであった。

思えば、般彌自身が引用した青畝の調べの意識である「詩歌はつねに声調を主にする。金塊集は万葉調を復活して朗々と吟じられる。これは俳句においても変りないはずである」という文言も、句の調子というテクストに対するテクストの影響を前提とした調べの話であって、限りなく言葉の上の話であった。而して、かりそめに創造された身体は遂に青畝自身に帰ることがなく、腹を食い破って表れた「言葉の蛇」に、到頭食いつくされてしまうのである。であるから、これから本稿が連呼する「青畝」は、青畝自身を呼び出すことがないことを先に断っておく。

さて、『花下微笑』は、第一句集『萬両』(1931年)と第二句集『國原』(1942年)の間に発刊された番外句集であり、1931年から1937年までのホトトギス雑詠欄に入選した句を集めたものである。第二句集『國原』は、『花下微笑』から再録した句を多く含んでいる。

この句集のタイトルである『花下微笑』は、虚子が青畝に宛てた「聾青畝ひとり離れて花下に笑む」の句によるもので、虚子は「花下微笑」と墨書した額装を青畝に贈っている。前掲した句の印象を青畝に対して持っている虚子の読みが、ホトトギスの選句を基にした『花下微笑』の構成単位に織り込まれていることは念頭に置いておきたい。また、序文には、紀元2600年の祝賀のつもりで出版したとあり、刊行当時である1940年の歴史に対するパラダイムもテクストに関連していることを留めておきたい。

青畝は、1899年に生まれ1992年に鬼籍に入るまで11冊の句集を編んでいる。第1句集『萬両』には、「なつかしの濁世の雨や涅槃像」、「葛城の山懐に寝釈迦かな」などの句が収載されていて、すでに青畝の詠みぶりとして記憶される句がある。言うまでもなく「涅槃」は青畝の諸作に溢れかえらんばかりあって、『季題別 阿波野青畝全句集』(角川書店・1998年)に拠れば63句も残している。いくら11句集も刊行していると言っても、単純計算で1冊ごとに10句程度だと考えると、これはかなりの量である。

日照るとき金を横たふ寝釈迦かな
日照るとき魚介交り来涅槃像
哭いてゐる舌が真赤で涅槃変
涅槃変大きな顔をまん中に
大いなる幅解けて来て涅槃変
穴を出し虫の如くに涅槃変
かなたより賓頭盧に寄り寝釈迦まで
一の字に遠目に涅槃したまへる
涅槃図をしまふべけんに僧の留守


『花下微笑』にある涅槃の句を並べてみた。「涅槃変大きな顔をまん中に」は、後に詠まれる『甲子園』の「初夢の大きな顔が虚子に似る」を彷彿とするが、これはまあ余談である。

こうして列挙して見た時、あらためて重信の「いつしか、自由な時間と空間の間を自然に泳ぐ「言葉の蛇」となりきったのである。」という評を思い出すのである。

ビルヂングより立ちのぼる雲の峯
バルーンのへこみてそこも片かげり
夜業人に調帯たわたわたわたわす
村叟の酔ひこぞりたる除隊かな


『花下微笑』は、これらの句を含みながら、生活や現実を克明に確かにはっきりくっきりと書き留めることを志向しようとはしていない。

例えばそれは物の見え方に顕著である。前掲した「日照るとき金を横たふ寝釈迦かな」、「哭いてゐる舌が真赤で涅槃変」の二句は、同じく色を言っているが、前者が「金を横たふ」とぼやけて見せるのに対して、後者は「舌が真赤で」と一点に焦点を絞る。ただ、焦点を絞ったことによって、真赤な舌以外はぼやけてしまうので、前者と同じくぼやけてしまうことに他ならない。

涅槃変大きな顔をまん中に」、「大いなる幅解けて来て涅槃変」の「大いなる」、「かなたより賓頭盧に寄り寝釈迦まで」の「かなたより」、「一の字に遠目に涅槃したまへる」の「遠目に」、「涅槃図をしまふべけんに僧の留守」の「留守」、これらの言葉は位置や距離を内包しながら、並べて茫漠としてぼんやりとしている。

日照るとき~」、「哭いてゐる~」も、幅のある時間のうちの一瞬をストップモーション的に見せているのだが、その止まっている時間に対して、相対的に計り知れない茫漠としてぼんやりとした時間間隔が立ち現れる。「茫漠としてぼんやりとした」言葉が、青畝の超越的な空間と時間を立ち上げる装置として機能している。

池の梅氷雨をほしいままにせり
春の水獺の潜れば黄となんぬ
ひだるくてしどみ掘る根なかりけり
金色の虻もがきをり壺の許
蝸牛や降りしらみては降り冥み
なにも居ぬごときが時の金魚玉
はつきりと鵆の数のめでたさよ
狐火や幼ごころの山かずら


もちろん、すべての句にそういった機能が備わっているというわけではない。寧ろ、そうした機能がある句が、『花下微笑』のあらゆる言葉を触発し、なだれ込むように作用し、そして遂には上記の句が、空間と時間から超越するような虚の詠みぶりに読めてくる。句集全体を取り込みながら肥大していくことに、強靭な機能性を感じ得ない。

ただ、こうした超越的な空間と時間を立ち上げる言葉の装置は、紀元2600年というパラダイムと結びついて機能してしまう。紀元節とは、『古事記』や『日本書紀』に拠る神武天皇が日本の天皇として即位した日のことだが、そもそも神武天皇は、『古事記』によると137歳、『日本書紀』によると127歳まで生きたとされていて、凡そ神話的な存在である。こうした神話的な起源から連なる国史の内側に置かれた『花下微笑』というテクストは、次のような句を収載することとなる。

御帷の御裾長や初詣
下向にも神神坐す山の藤
御成とぞ蟻の道だになかりけり
どこまでもつづく神苑鹿の子立つ
けさ晴れてお花畠や天が下
天の原雪渓の襞そろひたる
志賀や昔天智天皇船あそび
鹿をらぬところはなしや日曜日
この神のもと佛なり神無月


神話と睦み合った『花下微笑』は、茫漠としてぼんやりとした超越的な時間と空間を機能させ、遂にはあらゆる言葉を召しとって、あらゆるかりそめに創造された領域で、殆ど自己生成的に補完し続ける。

しかし、それも初めから決まっていたことのように思う。花の下のほほ笑みが誰のものかさえ言い留められなかったのだ。今や顔を離れたほほ笑みだけが、不易の概念の許にぼんやりと浮かんでいる。




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