2017-06-04

【週俳5月の10句作品を読む】雑読々Ⅱ 瀬戸正洋

【週俳5月の10句作品を読む】
雑読々Ⅱ

瀬戸正洋


朧夜のまばたきをみづ這ひのぼる  青本瑞季

朧夜のまばたきとは呪文のことなのである。呪文とは言葉のことなのである。かたちのある言葉のことなのである。呪文を唱えると「みづ」は自ら行動するようになる。這いのぼろうとする意思、つまり、この「みづ」には精神的向上心がある。たとえ這いのぼることができなくても、呪文を唱えることが大事なことだったのである。

紫雲英野から鳥の鳴きごゑつきまとふ  青本瑞季

紫雲英野とは、私たちの生活をする場ではない。つまり、異界のことなのである。異界の鳥の鳴き声につきまとわれることは特別なひとだからなのだ。特別なひとは生きていくつらさに耐えなければならない。それが嫌ならば特別なひとを降りればいいのである。特別なひとを降りることなど決心さえすれば簡単にできることなのである。

いくつものこゑのまとまる夕桜  青本瑞季

ひとりで歩いていたら思いがけず満開のさくらに出会った。こんなところにさくらがと思った。夕ぐれどきのさくらはひとのこころを妖しくさせる。あちらこちらからはなし声が聞こえる。こゑのまとまるとは、そのさくらの古木にひとが集って来るということなのである。もちろん、ひとのすがたは見ることはできない。

青銅匂ふ花屑の色抜く水に  青本瑞季

池とかプールを思いうかべるが、よく考えてみれば、花屑の色なのであるから水面に花屑が浮いていなくてもいいのである。青銅の匂いがしている花屑色の水を抜いたのである。台所の窓からは満開のさくらが・・・。

うすびかりして花過の四肢の端  青本瑞季

花も散り、街の喧騒もいちだんらくしたころの遠雷。四肢とは両手両足のこと。両手両足の端にあるものは悔恨と不愉快な思い出。それでも、自己嫌悪に陥ったりしてはならない。

芽吹く夜の鬱のかよへる耳朶の穴  青本瑞季

芽吹く夜の「鬱」は、耳朶の穴を行き来するのである。鬱蒼となるための第一歩を「鬱」は歩きはじめる。それが憂鬱なのである。「鬱」とは視るものではない。「鬱」とは聴くものなのである。鬱蒼であること、憂鬱であることは、私たちにとっては日常のできごとなのである。

みづかきの昏さにたんぽぽの綿毛  青本瑞季

たとえば、日がくれてカモがあぜ道を歩きまわっている。その場所にはたんぽぽが咲いている。カモは水田の害虫を駆除したんぽぽの綿毛をとばす。カモにみづかきのあることは正しいことなのである。カモがたんぽぽの綿毛をとばすことは正しいことなのである。

首すぢの熱さへずりに曝しをり  青本瑞季

熱のある首すじをさへずりに曝したのである。「曝」とは、「曝露」とか「老い曝える」のような、私小説的なイメージがあるが、この場合は、曝すことが心地よいのである。つまり、私小説的なイメージとは真逆なもの。「首すぢの熱」とは、さへずりに曝さなければならないものだったのである。

まばゆさを薄めてまはる風車  青本瑞季

屋外に出たときまぶしさを感じた。そのあと風車を見たのである。まはっている風車はまぶしくはなかった。だから、風車は、まはることでまぶしさを和らげてくれているのだと思ったのである。たとえ間違っていることであっても断定してしまえば、それはそれで正しいことなのである。

柳の道まなざしのふとばらばらに  青本瑞季

街を歩くといろいろなひとがいる。街を歩くといろいろなことに出くわす。見る対象により視線は、やさしくなったり、悲しくなったり、怒ったりするのである。誰もがそうやって歩いている。にんげんとはめんどくさいものなのである。柳は、そんなことはおかまいなしにかぜにゆれている。

月見草島の時間を速めをり  岡田由季

楽しい時はあっというまに過ぎてしまう。たびびとにとって島での出会いは非日常のくらし。ゆっくりあじわいたいと願う。願えば願うほど時の速さは増していく。し方がないとあきらめ誰に責任を押し付ければいいのかを考える。夕刻に咲きはじめ朝方にしぼむ風変わりな花なのである。月見草とはよく名付けたものだと思う。

薔薇屋敷からの脱出新樹光  岡田由季

薔薇屋敷からの脱出と書かれると立原正秋の小説「薔薇屋敷」を思い浮かべる。だが、この「薔薇屋敷」とは精神のはなしなのである。美しいもの。魅力のあるものには「棘」がある。その「棘」に耐えきれなかったのである。新樹にひかりが当たることで、「薔薇屋敷」も何もかもが、再生されていく。

数十年前、立原正秋の作品は書店に溢れていた。私にとっての立原正秋といえば「冬のかたみに」である。「男性的人生論」を読み驚いた。高井有一の「立原正秋」を読み、さらに驚いた。「脱出」とは、立原正秋にふさわしい言葉のような気がしてならない。

髭塚へ南天の花傾きぬ  岡田由季

髭塚とは形見の髭や髪を土に埋めた場所。それなりの人物でなければ塚など建立しないだろう。そこへ南天の花が傾いている。南天の花ことばは「福を成す」。難を転ずるという意味もある。つまり、縁起のいい花なのである。ところで、南天の赤い実はよく見かけるが、白い花はあまり印象にない。

人間と比べられゐる藤の花  岡田由季

にんげんと比べられた藤の花は不愉快なのである。
感情を抑えることもできず、諂い、嘲笑い、挙句の果てに自分自身さえも平気で騙すにんげん。

何も言わず、抵抗することもなく、咲くことの意味など考えることもなく、ただただ、風に吹かれている藤の花。

演習を繰り返し、ミサイルを海に落とし・・・・・・・にんげん。

茉莉花や短き電話秘書課より  岡田由季

秘書課からの電話とはめったに掛かってくるものではない。短い電話なのでたいした用件でもなかったのだろう。茉莉花といえばジャスミン茶である。ジャスミン茶にはウイスキーを数滴落したい。ウイスキーとは重宝なものである。何にでも落とせばいいのである。そうそう、茉莉花は白い清楚な花であった。

同じこと違ふ言葉でアマリリス  岡田由季

考えているのだ。あなたを傷つけないために。言葉はいくらでもある。そのなかから一番適切な言葉を選び出す。余計なことは言わず、黙っていることが最適だとしても、言葉を発しなくてはならないときは来てしまう。アマリリスは美しい。もちろん、あなたも美しい。

どの道を行つても躑躅先回り  岡田由季

躑躅の咲く小道、庭園のなかを歩いているのだろう。どの道を行っても躑躅が咲いている。同じ躑躅が先回りしているのではない。どれも違う躑躅なのである。違う躑躅を同じ躑躅であると思うこと、人生ではよくある光景なのである。

夾竹桃咲いてニュースの声硬し  岡田由季

夾竹桃の花をながめていてもあまりよいイメージは湧いてこない。加えて、ニュースを読むアナウンサーは、表情だけではなく声も硬く聞こえる。政治家も官僚もアナウンサーも誰も彼もが嘘をついている。自分自身に嘘をついている。

地下街の浅き深きを百合の花  岡田由季

山の斜面に咲く百合の花は、花の重さに耐えかねて花は地面にくっついている。お辞儀をしているようなかたちだ。都会の、地下街の生花店で売られている百合の花はしっかりと立っている。浅き深きとは、地下街のことでもあり百合の花のことでもあり、そこを行き来するにんげんのことでもある。

雨後の薔薇大きく息をしてゐたる  岡田由季

雨が止むと薔薇は大きく息をする。雨が止むとにんげんは大きく息をする。雨が止むと薔薇の花もにんげんも大きく息をする。雨の日も、風の日も、曇りの日も、晴れの日も、どんな天気であっても薔薇の花もにんげんも大きく息をする。


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岡田由季 薔薇屋敷 10句 ≫読む

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