2017-07-09

【句集を読む】終わらない映画 田島健一『ただならぬぽ』 宮本佳世乃

【句集を読む】
終わらない映画
田島健一ただならぬぽ

宮本佳世乃

『豆の木』第21号(2017年5月5日)より転載

田島は15歳から俳句を作りだしたというから、句歴はもう28年だ。実際、その期間を生きるということは一筋縄ではいかない。

本句集は、47章、368句からなる。鴇田智哉の第2句集『凧と円柱』(2014年)の四二章を参照しているのだろう。一章には5句から11句。パラパラ漫画のように、するすると読み進めることができる。しかも句集名と同様、章のタイトルが「記録しんじつ」「帆のような」「音楽噴水」などユニークだ。タイトルは読者にとって補助線の役割を果たしうるから、さらっと読めそうだ。

しかし、そう思ったときに、読者はいきなり躓くことになる。

翡翠の記録しんじつ詩のながさ

(冒頭の句。ここで挿入されている、しんじつって何だ?)

翡翠は一瞬一瞬が美しい鳥だ。記録は、たとえば羽ばたきの秒数の記録であっても、映像であっても「生きている姿」をうつしだす。記録のうえでは、時が止まっている。さらに記録は個々人の記憶であり、常に意識的に「しんじつ」なのである。

定型である俳句や短歌と違い、詩は作者が終わりを決める。意識的に「終える」ことで、詩は「しんじつ」となる。

日にくじら永遠がいったん終わる

(永遠が終わる、とは?)

ここでの「永遠」、それは刻々変わる海の表面の水の流れに対してじっと動かない底流のような、自分が生まれる前の世界、つまり死んだ後の世界のような、時間を越えた、ある何かだ。広大な海のひとときを日が射して、鯨の影が海面に映る。すると「永遠」がいったん終わる。終わることで、時間、あるいは生命が生まれたのだ。

「日に」の二音で鯨の雄大さ、永遠のありようを表現している。

なにもない雪のみなみへつれてゆく

(なにもないということ?)

帯に刷られている句。真っ白な、美しい世界だ。他の色と比べると雪の白さが分かる。光がなければそれが白いことは分からない。この句には「なにもない」。句の世界にあるのは「雪のみなみ」、今いるところよりももっとおだやかでもっとあざやかであると予測される光だけが、ある。

光るうどんの途中を生きていて涼し

(うどんの途中?)

窯からあげられたばかりの、つるっとした「光るうどん」と、自分が「生きている」ことは同等だ。人生をゼロベースで選べる人はいない。「私が生きている」ということには原因がない。そして、「生きていく」ということは、自分の人生を受け入れること。不本意な選択から人生を選ばなければならない場合や、思うようにならない現実もあるけれど、「生きていく」。いつも途中だ。

季語の「涼し」は、暑さの中で意識される涼気だけれど、この句での「涼し」は、さわやかなこと。清らかなこと。もう少し足すと、つらくても平然としていること、のような気がする。

ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ

(ぽ???)

句集名になった句。すきとおった海月が光りながら上へあがる。射しこんだ光を追い抜く。さらに他の海月も追い抜く。それにしても今さらながら、「ぽ」って何だろう。ポ? 海月を模した姿?

ぽ。ポ。PO。破裂音。口に出すときに上唇と下唇を軽く触れさせる。「ぽ」っていうとき、何だか子どものようだ。「ぽ」は、唯一「ぽ」でしかない。

読者である私と「ぽ」との間には決して埋められない距離がある。どうも私の生きている時間と「ぽ」のいる時間が違うようなのだ。しかも「ぽ」は二回も登場し、意識をもって動き出す。まるで田島みたいだ。

父はひかり届かぬからだ朝桜

これもひかり。父は消耗していて、生気を失っている。毎朝出勤して夜中、もしくは夜明け前に帰って寝るだけの生活。光は周囲を包み、あたりに同一に広がる。子どもにも、桜にも光が届く。ここに朝桜があることで、しあわせはうっすらとつながっているようだ。

本句集は家族の句が多い。まずは父の句。

父が母へ投げる玉葱俺の上

墓洗う父を濡らしているのは誰

滝壺へ降りゆく父の服の色

汐干狩父が煙になっている

15歳だった田島が青年となり、結婚し、子どもをもうける。田島だけが歳を取るのではない。父も中年を経て高齢になっていく。 本句集は編年体ではないが、父を見る目線の変化が感じ取れる。

玉葱を投げる父は躍動的だ。「俺」の上を弧を描く玉葱。「俺」という一人称からも主体は若そうだ。続いて家族での墓参。濡れている父は見たこともない姿だ。やがて父は服だけとなり、煙になった。

夕立を来る蓬髪の使者は息子

息子きみは弓だ雪夜に強く撓り

これらは息子に向けた句。夕立に髪を濡らしてくる勇敢な息子。弓のような美しさと強さをもつ息子。田島の父も息子である彼について、同じように思っているのではないだろうか。私は女性なので分からないが、男性にとって父親は、乗り越えるべき特別な存在なのだろう。

森よ菠薐草に塩ふるしぐさ

如月の雲の匂いのおとこの児

空がこころの妻の口ぶえ花の昼

庭師は次の庭へ行かねばならぬ菫

猫柳こどものうつくしい会話

夜桜となるまで海のさくらかな

桜降るどのひとひらも妻の暮らし

「空がこころ」の章を丸ごと引いた。私がこの句集のなかでもっとも美しいと思う章だ。妻については、次のような句がある。

妻となる人五月の波に近づきぬ

鏡中のこがらし妻のなかを雲

鏡にはいろいろなものが映り、人は見たいものを見たいように見る。鏡に映るこがらしの音のない姿と、雲を携える妻。すべては一瞬の美しさでしかないかもしれないが。

口笛のきれいな薔薇の国あるく

草笛を吹くいちれんの手がきれい

謹賀新年まなこきれいな蛸つかみ

双眸のきれいな鹿を持ち帰る

花の昼に妻が吹いていた口笛はいつしか草笛の音に入れ替わり、きれいな手できれいなまなこの蛸をつかむ。まなこを持ち帰り、家でよく見るとそれは鹿となっている。光、父、きれい、鶴、……この句集に流れるキーワードは何回も変奏される。

ここまでは時間や、光、家族といった側面を見てきた。光に関する句は本句集中に20句以上もあるが、光があることで生まれる、もうひとつの存在を見ていきたい。

郵便の白鳥を「は」の棚に仕舞う

好日や客むささびとなり帰る

つむる眼のなかの家族や狐鳴く

ふくろうの軸足にいる女の子

去れよ闇ふたしかな鶴からけむり

黒い三月まなざし盾にして帰る

鶴が見たいぞ泥になるまで人間は

「鶴が見たいぞ」より全句。郵便で届いたものを仕舞う暗い棚、むささびとなり翻る客。目をつむらないと家族が見えなくて、盾がないとまっすぐ歩けない年度末。泥になるまで憔悴しきっている。この章を救っているのは女の子だ。ままならない日々であっても足は2本あって、ふくろうよりもすきとおった小さい女の子がいる。

白鳥定食いつまでも聲かがやくよ

西日暮里から稲妻見えている健康

田島の俳句の特徴に「挿入する」ということがある。「定食」「健康」という異質な言葉を入れることによって熟語めいたものをつくり、句をごつごつさせる。読みづらくさせる、といってもいい。一見関係ない言葉を挿入するという発想の自由さは、田島自身が俳句に求めている要素そのものだろう。つまり「表現者としての自由を表現する」「ことばの先に行く」ということだ。

一つひとつの章にも句の挿入が見られる。「鶴が見たいぞ」であればふくろうの句を挿入することで、少しの光を与えてバランスを取りつつ、その先に行けそうな、しるしをあらわしている。

句集全体を読むと異様ともみえる「鶴が見たいぞ」の章は、喪の作業の挿入ともいえる。死に導かれるほど、とらわれていた鶴の。

ヒトラー女性化計画複数形の蝶

軍艦をこわして螢籠つくる

戦争したがるド派手なサマーセーターだわ

原子炉がこわれ泉は星だらけ

誰か空をころして閉じ込めて鶴を

「誰か空を」は強いテーマ性を帯びている章だ。ヒトラー、軍艦、戦争という生の言葉が集まるところに、蝶や螢籠、泉という一見美しい言葉が対になり、影のような役割を果たしている。蝶の姿が一対の染色体のようであるように、軍艦からできた螢籠も、戦争をしたがるサマーセーターも記憶を含んだしんじつが組み合わさっている。そこには、何かをきっかけとして一瞬でほどけてゆく危うさがある。空が壊れればこの世がなくなる。もしかしたら、鶴とともに永遠に行けるのかもしれない。

梟や息のおわりのきれいな詩

句集の最後におかれた句は、少し夢見がちだ。息のおわりとはすなわち死ぬことである。世の中には、ほんとうにすーっと逝く人がいるけれども、まるで終わらない映画を見ているようだと思った。

『ただならぬぽ』は、たくさんの田島の俳句が書かれている本だ。それは、ほかの何ものでもなく、そこにあるすべてでもある。


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