2017-07-30

金原まさ子という事実 池田澄子

金原まさ子という事実

池田澄子


最も最近の「金原まさ子百歳からのブログ」等によると、金原さんは貧血が酷くなったので二度、入院して輸血をなさったそうだ。症状が落ち着き明日退院という許可が出て、そのときお見舞いにいらしていたご家族たちに、ピースをしてサヨナラをなさって、その後、急変して逝かれたそうだ。

明日に帰宅したら、夕食前に快気祝いのワインを開けて、これは私の奢りよ!なんて仰って、乾杯している写真を撮ってもらい、それを娘さんから、あの人とあの人にメール添付で送ってもらおう、と多分思いながら、その後の日々に希望をもって逝かれた、多分。

人は、死が怖いのではなくて死を意識することが怖いのではないか。どんな死に方をするのか、それは痛いのか苦しいのかと思うことが怖ろしいのではないか。彼女は、あぁ清々した、明日は何をしようか、と今までの普段の暮しに戻ることを疑わなかっただろう。なんという幸せな逝き方。

こういう死に方が出来るのは、何かに選ばれた人だ。

初めて金原さんを意識したのはいつだったのかと考えてみて思い出した。金原さんの所属誌「街」から、同人作品評をお頼まれしたことがあったのだった。それは何年頃だったのか、調べれば分かるけれど調べずに、私のPCの「散文」というところを辿ってみたら、73号~75号となっていた。2008年かもしれない、が、確かではない。今更に恥ずかしいけれど、その部分だけをコピー・ペーストしてみようか。こんなことを書いていた。

(73号用)
ずうつとクラゲ皆既月蝕以後も  金原まさ子

なんと不思議な句。本当は全くの当り前である。「皆既月蝕以後」に、クラゲがクラゲでなくなったとしたら、それは大事件だ。ところが、こう書かれた途端に、この世の状況としての当然は裏返されて、クラゲがクラゲのままであるという当然が、呆然とする程の不思議に思えてしまう。言葉は時として巨大な魔物に豹変する。

(74号用)
空蝉を抱きだるくなる松ノ木は  金原まさ子

「松ノ木は」の「は」での終わり方は危ういので私は真似ない。また、これでよいものかどうかも自信がないと一読思った。しかし「だるくなる」で切れているのだった。あぁさぞや「だるくなる」ことであろう、と思われる。「緋目高の緋の純潔を護るべし」の緋目高は目高の改良品種らしい。もともと純潔を失っている品種。だからこそ「守る」でもない大袈裟な「護るべし」は悲痛な願い、かつ無理難題。

75号も書いているけれど、3号の毎回取り上げるというのもまずいかと、バランスを考えて遠慮したのかもしれない。

「草苑」創刊同人で、「草苑しろがね賞」「草苑賞」受賞、と句集の後記にあるので、知る人は知っていらしたのだろうか。「草苑」を読んでいなかったにせよ、私が俳壇に関心が薄かったこともあったにせよ、あまり表立って知られてはいなかったのではないか。ベツに知られていなくたって構わないことだけれど、それにしても。

その後、お手紙を頂いたりしてオトモダチになった。『遊戯の家』の書評も何処かに書いた。美しい行書と言ってよい文字で、でも力を抜いた崩れのないしっかりした美しい文字、美しくあることに心を寄せている真面目な性格を見せていると感じた。そう言えば、手紙は下書きをしてから書くのだと仰っていた。

実は私は、「私が見つけた名句」「私が見つけた人」ということに心躍るタチで、自分のことでは絶対に、痩せ我慢であっても絶対に人に擦り寄らないのだが、金原さんのことでは事あるごとに吹聴した。巷の話になるけれど例えば俳句雑誌関係、例えば、偶々関係したテレビ番組、例えば新年の俳句大会など、催しものに関わる度に、こんな人が居ますよ居ますよ、と騒いだ。失礼ながら、お元気な今のうちにという気持もあって気が急いた。

金原さんを見たことの無い人には、100歳を過ぎた女性と聞けば、いくらお元気で綺麗でと説明しても、絶対に想像が追いつかないのは当然で、どうも食指が動かないらしいのだった。偶々私が関わりのあった宝生あやこという女優さんが、その頃、何歳だったか90歳は越えられた頃、でも、きりりと美しく演技力も衰えていなかった。女優として見事だが生き下手で、処世が下手で、勿体なかったのである。

その頃、百歳の柴田とよ詩集『くじけないで』が売れていた。柴田さん、金原さんのトーク(金原さんは一緒にしないで、という好みの問題はあったが)、そして宝生あやこが、その二人の詩と俳句を朗読する、という特別番組を作ったら面白そう、などと本気で考えた。敬老の日の特別番組にはバッチリだ。

あぁ本当に、そういう番組が出来ていたら面白かったのに。と思いながら、吹聴しているイケダスミコ自体が地味で無名だから、今いち効力がないのは分かってはいたが。

その後、偶々「ユリイカ」の、確か「現代俳句の新しい波」とかいう特集号があって、そこで、佐藤文香と私の対談をさせていただいたので、そこでも話題にした。書影も載せていただいた。それはちょっと効果があった気がする。さすが「ユリイカ」である。

話が飛ぶけれど金子兜太さんとご一緒した折、兜太氏が心細そうなことをふと漏らされたので、こういう人もいらっしゃるのですから、もう暫く先生はお元気で居てくださらなければいけません、と憎まれ口をきくと兜太氏、ブログで何かやってるって人かい、そんな、とんでもねえのと一緒にされても困る、と苦笑していらした。

「兜太×まさ子」で何かパーッとやったら面白いに決まっているが、お耳のことが心配だったので、それは思うだけ。

そこで例のブログである。

今日の私は自慢ばかりしますので、不愉快な折はお読みくださらないように、どうぞ。

「街」の仲間で金原さんと特に親しかった小久保佳世子さんから、「100歳からのブログ」とかいうものを始めると聞いた。毎日、フアックスで1句を受け取り、それを彼女がPC上にあげるという。

そこで又、私のお節介癖がふつふつと湧いてきた。ねえねえ、1句をアップするだけじゃなく、折角あの美しい文字だもの、それをそのまま載せたらどう? そういうことが簡単に出来るならば。

その提案は大成功! と私は内心とても自慢に思いながら愉しんだ。そのお節介な案は、結果としてホントによかった。

自筆の「1句+身近なコメント」だけでも充分なところ、小久保さんの絵心が刺激を受けて花咲いたのだった。見事に素敵なセンスで絵や写真が添えられた。あれがなかったら、あれほど素敵な刺激的な1頁にはならなかったと思う。

あれは、「金原まさ子×小久保佳世子」のブログだった。それは両者にとって、予想以上の出来栄えだったのではないか。その二人の快感、羨ましかった。

あれもこれも、みんな本当にあったことだ。信じ難い本当のあれやこれや。金原まさ子さんという人が、106歳という日々を此の世に在って、此の世を眺めながら、ちょっとふしだらなことも考え、生き飽きずに、うっすらと笑みをたたえていた、という不思議な事実。私たち、確かに見ましたよね。

先程、『あら、もう102歳』を持ち出してきたら、

「池田澄子様 
 おはずかしさを怺え怺え
お目にかけさせて頂きまする
四月二十五日
          金原まさ子拝」

と書かれた一筆箋が挟まっていた。きっと、そのようにして皆さんに送られたのだと思う。やっぱり明治生まれは違うなあと思った。うーん、淋しい。


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