2017-08-06

あとがきの冒険 第25回 雲雀・恍惚・ブッダ 鴇田智哉『凧と円柱』のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第25回
雲雀・恍惚・ブッダ
鴇田智哉凧と円柱』のあとがき

柳本々々



 句はどれも、それが生まれた年によってでなく、心における前後に照らされて、配置された。
 心は、以前にも以後にもうつる。それは感情に限らず、見える、聞こえる、匂うといった感覚に関しても。ときに心は、未来の出来事を先に見ることでさえ、ある。ーー今のこの出来事は、いつか遠い昔にも見えていたし、これからずっと先にも、また新たに聞こえ続けるだろうーー
 この句集はいわば、心の編年体による。

(鴇田智哉「あとがき」『凧と円柱』ふらんす堂、2014年)
鴇田さんはいつも〈どこ〉にいるひとなんだろうとすごく気になる。この「あとがき」を読んだときにあらためて思った。鴇田さんは「以前にも以後にも」いるし、「未来」にも「遠い昔」にもいる。かと思えば、さいきんの『角川俳句』で鴇田さんはこんなことを書いていた。「今」のことを。
雲雀は私からも、雲雀からも見えていない。また、私は雲雀からも、私からも見えていない。このような状態を、今と呼んでみたい。今とは、我、彼を忘れて充満するものだ。俳句は、今の詩だ。言葉が言葉であることを自覚する寸前にある
(鴇田智哉『角川俳句』2017年6月号)
ここには一般の感覚では発想しない「今」が展開されている。「今」というのはわたしがいま・ここにいてわたしを実感することではなく、わたしがいなくなる、ということすらも、なくなるような感覚が満ちることをいう、らしいのだ。ここに鴇田さんの俳句のコンセプトのようなものがあるのではないかと思っている。言葉が言葉になるぎりぎりの手前、言葉が言葉であることをわすれているような時空間。それが「今」だ。そして、たぶん、その「今」は「未来」であり「遠い昔」であり、「心」でもあるのだ。

  人参を並べておけば分かるなり 鴇田智哉

あえて「あとがき」から読んでみようと思うが、この句の「分かる」は〈なにもわかっていない状態にみちみちている状態〉が「わかる」と感じられるような状態なのではないかと思う。「我、彼を忘れて充満」している状態。「人参を並べておけば」というのは、このとき、〈心の編年体〉に対応する。句集製作として句を編むように、「人参を並べて」いくと、「今」が恍惚とあらわれる。しかし、その「今」をだれも、なんぴとたりとも、知覚することはできない。そしてその知覚不可能性を「わかる」と呼びたい。「わからない」と言えるのは、知覚できたからである。でも、「わかる」は「雲雀は私からも、雲雀からも見えていない。また、私は雲雀からも、私からも見えていない」ような状態にある。

むかし、中山奈々さんが、ブッダが俳句を詠んだらどんな俳句をつくるだろうか、というとてもおもしろい問いかけをしていた。よく、おもいだしては、かんがえる。

鴇田さんのような俳句じゃ、ないだろうか。
 

(鴇田智哉「あとがき」『凧と円柱』ふらんす堂、2014年 所収)

0 comments: