2017-09-10

【週俳8月の俳句を読む】愛敬って大事だよって先輩に言われて。  橋本小たか

【週俳8月の俳句を読む】
愛敬って大事だよって先輩に言われて。

橋本小たか


「一流の作品は、どこかユーモアがあってかわいらしい」
句歴でいえば恐らく四十数年、ベテラン俳句作者のひとこと。

わが道を一所懸命にひた走るのはもちろん結構。
しかし、その作品群にどこかしら愛敬が感じられないようでは、まだまだ。
そんな教えかと思う。

たとえば蛇笏に愛敬があっただろうか?
「芋の露連山影を正しうす」は荘厳とも言える景にもかかわらず、
「ただしうす」という音がむやみにかわいい。
その結果、まじめな顔をして冗談を言う、イギリス式ユーモアのような調子があって、
すこぶる愛敬に富む。「なんつってね」と、はにかんでいそうだ。

蛇笏をよく知る藤田三郎さんによれば、龍太にくらべ蛇笏は冗談も猥談も好きだった由。突然、そういう話をはじめるのだという。
よくわかるね。やりそうだ。「芋の露」にかぎらず、蛇笏作品は愛敬がある。

ある年代の俳句作者たちの文体にもっとも影響を与えたのは蛇笏だった。
蛇笏の文体が俳句の文体になった。格調がある、無い、が基準になった。
それはそれでいい。けれど、格調と愛敬が裏表だということをうっかり忘れたまま、
ずいぶん多くの人が蛇笏を真似たせいで、俳句はきまじめになった。

高野素十のあれやこれやの有名句も、愛敬という面では近いところがありますよね。
感動の急所は、描写ではなく、愛敬だったのではないか。
素十ファンが多いのは、あんまりにも高精細に描こうとしたあの姿勢に
愛敬を感じたために違いなかった。

こういう愛敬は、えーと、ほら、カフカの小説の読み味にも似ているかもしれない。
奇妙な設定を設けたあとは、ひたすら精密なリアリズム。
そのくせ、弱火で沸騰しつづけるヤカンの湯のあぶくのように、
ぽつぽつと親しみとおかしみの情が沸き出てくる、あれですね。

8月号をそういう目で見てみたらどうだろう。
岡田耕治さんの「西瓜」は、

 トマトジュース最後の音を立てて飲む

をはじめ、かわいらしい。
「落蟬の突然暴れ出している」「西瓜の種よく飛ぶようになってくる」。
かわいらしくて、且つ賢い子の笑みに似ている。
うっかりしているようで、うっかりしていないところが、惜しい。
うっかりしたところが無いのは山口優夢さんの「殴らねど」も同じで、
「父母のごと我等も泣けり百日紅」など、なまなましさと滑稽さをまじえた
夫婦喧嘩の連作は、冷静な青い糸が貫かれて愛敬を生むには至らないのですね。
題材のせいか。いや、そもそも、愛敬がなくてもいいのだけれど。

三宅桃子さんの「獏になり」は、

 爪を切るあいだ背中にある泉

その他「豊年の真ん中犬の紐余る」「宝仏殿のような檸檬を手がえらぶ」など、才気煥発。8月号でいちばん緊張感と気合の高い作品群。
ぴりぴりとした勝負魂は、もはや愛敬などと言っている隙が無い。
 
そんな中で、図抜けて愛敬のただよう作品群が矢野公雄さんの「踊の輪」である。
 
 黙読のときにほほ笑む夜長かな

うーん、ぜんぜん感心しない。むしろちょっと気持悪いくらいの句かもしれない。
あるいは「虫の音や寄り道いつか迷ひ道」もまた、なかなかどうでもいい句かもしれない。けれども、どうも感心しないなあと思いつつ愛敬を感じるのはなぜだろう。
いたってまじめに本人はそう思ったらしい形跡が、
そこはかとなく、かわいらしい。
極めつけは、

 下の名をはじめて呼ばれ稲光

「稲光」と来たか。
「黙読のときにほほ笑む夜長かな」の人が「虫の音や寄り道いつか迷ひ道」を経て、
「下の名をはじめて呼ばれ稲光」。

とぼけている。ちょっと、とぼけすぎている。
真似のできないこのとぼけかたに接したとき、
私は電撃的にゆるぎない愛敬を感じることになった。

「世界観」をつくることはできるかもしれないが、愛敬をつくることは難しい。

そういえば仕事場でも「愛敬がいちばん」だなんて言われたっけ。
こればかりは、ちょいと途方にくれる。



第537号
岡田耕治 西瓜 10句 ≫読む
樫本由貴 緑陰 30句 ≫読む
三宅桃子 獏になり 10句 ≫読む
山口優夢 殴らねど 10句 ≫読む
矢野公雄 踊の輪 10句 ≫読む

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