2017-10-15

【週俳9月の俳句を読む】「町」を描くということ 淺津大雅

【週俳9月の俳句を読む】
「町」を描くということ

淺津大雅


豊永裕美「この町あの町」と、鈴木陽子「あの町この町」を読む。まず、特に惹かれた句をそれぞれの連作から二句選び、鑑賞してみたい。



月天心夜市常常涎臭 豊永裕美「この町あの町」

「つきてんしんよいちつねづねよだれしゅう」で、あっているだろうか。「月天心夜市常常」までは美しいモチーフが並び、どこか漢文のようですらある。「涎臭」が、直前まで紡がれてきた瀟洒な世界観を、どろどろとしたリアルに突き落とす。夜闇の奥の方には、大口を開けた物怪か、あるいは浮浪者か、野犬か――そんなものたちが現れる。涎を垂らして眠る子供のような、かわいげのある涎くささとは読めそうもない。いったいこの涎はどこから臭って来るのだろうか。

くちびるの縷々浮かびくる秋の川 同

「る」の音を符牒にして流れる句の構造が特徴的であると同時に、さまざまなイメージ掻き立てる句である。例えばこの「くちびる」を水泡であるとか葉っぱであると読むことも不可能ではないだろうが、やはり先ず第一には「くちびる」として読むべきだろう。浮かびくるくちびるが「る」「る」「る」と音を発しては消えていくような想像をしてみても面白い。「秋の川」は、ひややかで澄んだ水として読み取るべきなのだろうが、このくちびるの正体は隠されていたほうが断然好い。おかしな存在としての「くちびる」がなぜか公共的に許されてしまうような、そういう空気を持った季節としての「秋」であってほしい。



はてしなき両替のごと滝壺よ  鈴木陽子「あの町この町」

滝壺を比喩する句といえば、「瀧壷に瀧活けてある眺めかな 中原道夫」を咄嗟に思い出す。いや、滝壺を壺そのものとして見ることは、比喩よりもむしろ言葉遊びに近いかもしれないが。掲句での比喩は「はてしなき両替のごと」である。滝壺を両替と見立てるとき、適切なのは「両替機」のイメージだろうか。ゲームセンターやバスの両替機が、最初に思い浮かんだ。それらは滝と比べると随分小さなものだが、小銭の吐き出される音はなかなかに凄まじい。「はてしなき」からは、両替がいつまでも続くことと同時に、滝の激しさ、大きさも感じられそうである。また、滝を金銭のイメージと結びつけてしまうところに、作者の茶目が感じられる。

朝霧は置き傘の柄に及びをり  同

ア行音が気持ちよく流れてくれて、声に出した印象が快活な句である。内容、句のつくり共に単純なように見えるが、「朝霧」が主語となっているところが面白い。(「及ぶ」は人の動作ではないため、擬人化とまでは言えないだろうが、それに近い読み方ができるだろう。)この構造は、「置き傘の柄」に触れたときのつめたさの感覚を「朝霧」の側から捉えなおしている、というのではなく、実に「朝霧が置き傘の柄に及んでいる」としか言いようのない感覚をまっすぐ伝えることに寄与している。朝霧と置き傘の柄を媒介するはずの作者の存在が、句の中で完全に伏せられているところが面白い。



独立した句としての鑑賞から、連作として読むことへ移行するにあたって、「この町あの町」と「あの町この町」という対のタイトルを解釈していきたい。豊永、鈴木の両作者との面識を筆者は持たないが、9月3日号のプロフィールを見ると、ともに「炎環」の同人で、栃木市生まれ(※)であり、なんと姉妹であるらしい。作品を編み、タイトルを決めるにあたって、どのようなやり取りが交わされたのかはわからないが、はっきりと対称性のあるタイトルには、なんらかの意図があったものと想像することは許されるだろう。(ただ、両連作の内容にとっては、対称性よりもむしろ、「町」という共通のテーマで繋がれているということのほうが重要である。)

「この町」は自分のいるところであり、「あの町」は離れたところである。「この町」も「あの町」もおそらくは、商店街があって、住宅地があって、自然があって、学校や公共施設やショッピングモールがあるようなふつうの町だ。しかし、「この町」「あの町」として語られる時、それらは愛着の対象となる。「この町はね……」、「あの町はね……」と語る時の人の顔は、きっと穏やかなものである。

この二つがセットになって、「この町あの町」、「あの町この町」となると、今度はそのような町ひとつひとつ、そしてそこにある暮らしを丁寧に拾い上げるような仕草が見えてくるだろう。

はららごもブーツも売られたる通り 豊永裕美「この町あの町」
草いきれ過ぎ三味線の音ひずむ 鈴木陽子「あの町この町」

町という環境は、人間が作り出したものであり、人間が住みやすいように誂えられたものである。両連作内にも、人の生活を匂わせるような句が多い。しかし一方で、

椋鳥にオリオン通り明け渡す 豊永裕美「この町あの町」
大学を栗鼠の走れり秋澄めり 鈴木陽子「あの町この町」

のような、人間の生活圏へ自然に動物が馴染んでくるような句もある。(あるいは植物、あるいは空気が。)そこに、現代的な「町」生活のリアルを感じることができる。そして、人間、動物の営みを「町」の営みとして捉え直す時、その全てに対する愛着と肯定が起ってくる。町を描く、ということを宣言するタイトルは、すべての句を包摂し肯定する作用を生み出している。

(だからこそ、一句一句が単独で「本当に肯定すべき句なのか」を厳しい目で見る必要も生まれてくる。「あばたもえくぼ」な読まれ方は、作者も期待しないことだろう。ただ、そのように考えてしまうのは野暮かもしれない、と思うほど、「この町」「あの町」という言葉には強い説得力がある。)



「この町あの町」、「あの町この町」というタイトルが示すところの「町」は、今、ここ、というリアルの生まれつづける場であるはずだ。それが、写生的な句だけではなく、純粋に写生的とは言えない〈くちびるの縷々浮かびくる秋の川 豊永裕美〉や〈はてしなき両替のごと滝壺よ 鈴木陽子〉のような形でも表出された点は、考えてみるに値することである。リアルとは、単にリアリティの濃度が極限まで高まったものなのではなく、もっと不可解なものであるらしい。そういうところも、「町」の面白さである。

※二名の出身地、および〈椋鳥にオリオン通り明け渡す 豊永裕美〉に書かれる「オリオン通り」(宇都宮市)などから、「この町」「あの町」を栃木市あるいは宇都宮市などに限定して読むこと決して不可能ではないだろうが、以下では敢えて「町」が「どの町」であるかを限定せずに読むことで、「町」を描くということ一般について考えた。


豊永裕美 この町あの町 10句 ≫読む
鈴木陽子 あの町この町 10句 ≫読む
柳元佑太 土佐夕焼 10句 ≫読む
第543号 2017年9月17日
森澤 程 レモン捥ぐ 10句 ≫読む
伊藤蕃果 天象儀 10句 ≫読む

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