2017-10-01

肉化するダコツ① 蝉落ちて鼻つく秋の地べたかな 彌榮浩樹

肉化するダコツ①
蟬落ちて鼻つく秋の地べたかな

彌榮浩樹


俳句について大切なことは、すべて蛇笏に教わった。

とは、かなり大袈裟な言い方だが、まったくの虚言でもない。

二十年ほど前のある秋の日の午後、ふと「俳句を作ってみようかな」と思い立った。仕事の合間にさっそく書店へ寄り、何冊か吟味した後に手に取ったのが、『現代の俳句』(講談社学術文庫)。巻末(皆吉司)から巻頭(虚子)へと、ページを繰りながら、気に入った句にひたすら印をつけていった。


何の解説もなく、ただ句がずらりと並んでいる。季語等をはじめ知らない言葉も多く、読めない、意味がわからない、どこがどうおもしろいのかピンとこない、そんな句にもつぎつぎ出会うのだが、我慢しながら読み進めた。通勤途中の時間を使って、一週間ほどで読み終わっただろうか。


そこで圧倒的にたくさん印がついたのが、飯田蛇笏と橋間石、2人の作家だったのだ。

だから、僕にとって、蛇笏(と間石)とは、「これが俳句(のおもしろさ)なのだ」という<原体験>として遭遇した作家なのである。凡百の作家たちとは異なる、いわば「俳句のおもしろさの精粋」。それが蛇笏(と閒石)なのだ。

ここで、いま改めて、蛇笏の句をつぶさに観察しながら、「俳句(のおもしろさ)」とは何なのか、を考えてみたい。極「私」的な考察を開陳することになるが、極「私」的であるからこそかえって皆さんの刺激・参考になることもあるだろう、と身勝手な希望的観測を持ちつつ。

今回の一句は、これ。


蟬落ちて鼻つく秋の地べたかな(昭和11年)

 

濃い。

この濃さこそが俳句の醍醐味だ。(僕が蛇笏から学びとったのは、まずそれだ)。

あるいは、これは、都会的な洗練とは対極にあるものかもしれない。田舎くさい、野暮ったい、しつこさ。田舎生まれ育ちの、いつまでも垢抜けない僕自身に、蛇笏の濃さ・しつこさが共鳴したということだろうか。


しかし、わずか十七音の言語作品が鮮やかに不思議さを発するためには、さまざまな感覚要素や言葉の質感が複雑に縒り合いねじれあい屈折しながら一句として立つ、そうした「濃さ」が必要なのではないか、と思うのだ。例えば、ブライアン・エヴンソンの奇妙な小説群の味わいにも似た“固い不思議さ”が、例えば、この句にも色濃く露呈している。

俳句表現としての眼目は2つ。(「~かな」の深みも、蛇笏の句の最大の特質の一つだが、これはまた考えよう。)


①「鼻つく」というキラーフレーズ。
②「秋の地べた」という季(語)のかぶせ。

①について。
こうして一句の作品として提出されてしまうと「ふうん」と流されてしまうかもしれないが、しかし、「鼻つく」とはとんでもない措辞である。


もしも、


蟬落ちて(   )秋の地べたかな


と、空欄補充問題にして「四音を埋めよ」、と課されたときに、「鼻つく」という答えが出てくる人がいるだろうか?


「蟬落ちてころがる秋の地べたかな」あたりが順当な解だろうか。あるいは「~つく」まで与えられたとしても、「翅つく」「背(せな)つく」「顔つく」「腹つく」・・・までは出てくるだろうが、「鼻つく」はとてもとても出てこない。


だって、蟬に鼻はないのだから。

そして、いろいろと考えて見ても、「鼻つく」は、圧倒的に魅力的だ。こうしたキラーフレーズが一句の中にあること。これが俳句作品の条件なのだ(と僕は理解した)。

では、「鼻つく」がキラーフレーズたりえているのはなぜか?


「鼻」が虚だから、というだけではない。もちろん、蝉に鼻はないのだが、「鼻つく」という措辞は、決してキテレツな印象ではなく、”わかる”という印象を与える。映像を思い浮かべることができる。立ち上がる情景が体感できる。分析的に表現すれば、鼻にあたる部位がつくということなのだが、しかし、それを「鼻つく」という<突き詰めた・とんがったことば>で描出することで、味わいがくっきりと立つ。


おかしい。悲しい。せつない。可憐だ。このチャーミングさよ。しかし、この蝉はもう(ほとんど)死んでいるのだ。怖い。グロテスク。ホラー。


それらが渾然一体となって立ち上がる。それが「鼻つく」というキラーフレーズなのだ。

②について。
a 蟬落ちて鼻つく秋の地べたかな
b 秋の蟬落ちて鼻つく地べたかな
c 蟬落ちて秋の鼻つく地べたかな
d 蟬落ちて鼻つく地べた秋の昼

同じような単語の組み合わせで、b~dのバリエーションをつくってみたが、やはりaが至高である。(個人的にはcもまあまあ好みだが、かなりの無理スジだ)。


「秋の」の位置をいろいろと動かしてみた(dは「昼」を勝手に補った)のだが、結果として、b~dは「鼻つく地べた」という措辞になっていて、原句aのみが「鼻つく秋の地べた」であり、ここが、決定的に重要なのだろう。


「鼻つく」との間に、「秋の」が「地べた」にかぶさるかたちになることで、”時空の広がり”が現出する。(b~dのように)「秋の」が単に”季の説明”に終わるのではなく、天地の空気感をも召喚あるいは発生しえているのだ。

一句の成り立ちをパラフレーズしてみると、


a1「蟬落ちて鼻つく」「秋の地べた」かな

でありながら、

a2「蟬落ちて鼻つく秋」の「地べた」かな

 との輻輳でもあり、a1の冷ややかさに、a2の「せつなさ」「可憐さ」が、重奏する。

b~dには、そうした輻輳、重奏はない。季(語)のかぶせによって、こうした複雑な味わいのハーモニーが発生する。こうしたふくよかな「季(語)のかぶせ」も、蛇笏の(肉化すべき)一つの特徴だろう。蛇笏の作品に決して頻出するわけではないが、この季(語)のかぶせによって「神品」と化した句が他にもいくつかある。

鼈(すっぽん)をくびきる夏のうす刃かな(昭和11年)
昼月のたかくて秋の鞍馬路(昭和31年)

あ、ちなみに『現代の俳句』には、「鼻つく」の句は収録されていない。他人の選は自分にとって必ずしもあてにならない、というのも、この句をめぐって学んだことの一つだ。

1 コメント:

匿名 さんのコメント...

「蝉落ちて」の句における「鼻つく」の解釈に驚きました。というのも、小生はこの句を目にした時、蝉が落ちたら、どういうわけで地面が臭うんだろう?蝉が腐っているのか?と先ずは思い、いやいや、そうではなくて、この鼻「つく」は鼻を「突き合わす」の意味で、地面にすでに死んで転がっていた蝉のすぐ間近にまた別の蝉が落ちてきて、お互いに鼻を突き合わせるような格好で横たわった情景を詠んだのだと解釈したのでした。蝉が死んで落ちるのは秋と言えば秋だろうけれど、ことさら「秋の」という必要はあるのかな、などとも考えたような気がしますが、鼻「つく」は鼻を「突き合わす」の意味だという自分の解釈に満足したことは確かです。そんな訳で、この蛇笏の句は印象に残るものでした。今ここに別様の解釈を知り、小生はいささかおっちょこちょいだったかなと反省している次第です。有難うございました。