2017-12-24

肉化するダコツ④ 葉むらより逃げ去るばかり熟れ蜜柑 彌榮浩樹

肉化するダコツ④
葉むらより逃げ去るばかり熟れ蜜柑

彌榮浩樹



俳句について大切なことは、すべて蛇笏に教わった(やや大袈裟だが)。
それをめぐる極私的考察、その4回目。

掲句、まず目につくのが、擬人法だ。
樹に生っている蜜柑がまるで葉叢から逃げ去りそうだ、という表現・イメージは、ぎょっとする奇想でありつつ、さもありなんと納得させるものでもある。だが、この句を「ああ擬人法だなあ。なるほど言われてみると実感があるなあ」と納得するだけでは、おさまりがつかない気がする。そうした納得を乗り越えてはみ出す、<霊的>な迫力・不気味さがこの句にはあるのだ。

俳句における擬人法とは何か?
そうした問いを、この句は僕に突き付けてくる。

というのも、例えば小説や詩における擬人法と、俳句の擬人法とは、本質的に仕組み・効果が異なるはずもないのに、わずか十七音の俳句においては、掲句のように“擬人法が作品のすべて”になりうる点で<決定的・致命的>なのだ。ここには、単に、表現技法としての擬人法という理解では見逃してしまう、たいへん重要な俳句作品特有の機微が露呈している、と思うのだ。

その一つは、<オノマトペ化>としての側面である(前回このことは詳しく検討したが、やはり再度ふれなくてはならない)。擬人法だというだけであれば、掲句の、「逃げ去るばかり」は、「逃げ去るやうな」等の言い換えができるはずだ(音数も変わらないから五七五の定型を乱すこともない)。「より」も含めた操作を、いくつか加えてみよう。

a 葉むらより逃げ去るばかり熟れ蜜柑 ・・・ 掲句
b 葉むらより逃げ去るやうな熟れ蜜柑
c 葉むらから逃げ去りさうな熟れ蜜柑
d 葉むらから逃げ去りたくて熟れ蜜柑

どうだろうか?

bやcの方が口語風の言葉遣いになっているから、こちらの方が親しみやすいと感じる人もいるかもしれない。
しかし、端的に言って、bやcは軽い。だからこそ、嘘っぽい。修辞法が修辞のための方法で終わっている。
そんな印象を受けるのは(abcの<意味>は変わらないのだから)、aの「より」「ばかり」という助詞のオノマトペ的な働きが、bcで失われてしまったからだということになる。

逆に言えば、aという俳句作品では、その中の「より」「ばかり」という言葉の音韻の響きあるいは見た目の文字面の印象が、読者の体感に<触感>として迫ってくる、ということだ。
「葉・むら(群)・より・逃げ・去る・ばかり・熟・蜜柑」という言葉の擦れ合い・重なり合い。この句の実在感、リアリティ、迫力、不気味さの秘密はそこに(も)ある。ラ行音のくねりながらの繰り返しが蛇のくねりのようにこの句に生動感を与え、「ばかり」の「ば」が頽廃といおうか「熟」の崩れに通じる量感を与え、座五の「熟蜜柑」の重さが一句全体の触感の錘として働く。その結果、一句全体が、言葉の上のフィクションを超えた確かな存在物の感触(その色、あるいは形状、実の表面の凹凸)を感じさせるものになっている。

そうしたオノマトペ的な<触感の機微>が、bやcでは失われているために、座五の「熟れ蜜柑」も、とってつけたような説明に堕している。薄っぺらいという印象はそこから来るのだろう。
むしろ、座五の季語を「熟」さないものに替えて、

e 葉むらから逃げ去りさうな青蜜柑

とでもすれば、bやcよりも<触感のつじつま>は合うが、今度は逆に「逃げ去」る感じがしなくなり、単なる奇を衒っただけの納得性・リアリティを失った措辞に堕してしまう。
(・・・でたらめにいじったのだが、dは、けっこうイケるような気もするが、どうだろうか?aよりは肌理のなめらかな「熟れ蜜柑」が見えてくる気も・・・。「から」「たくて」の明るさ・艶やかさ・切なさが、偶然、オノマトペとしてうまく機能しているのかもしれない・・・)

俳句作品における擬人法とは、まさにここがキモなのだ、と僕は考える。
つまり、体感に差し迫る、という意味での<触感>のリアリティの発生、だ。

僕たち人間が生きる上で、いのちがあるもの・動くものは、そうではないものに比べて、より深刻・切実に感じる対象となりうる。
無生物・動きのないもの・意志を持たないものが、意志を持って生物的に動くことは、それが僕たちのいのちを脅かす領域に侵入してきたということであり、それを恐い・不気味と(あるいは愛おしい・切ないと)体感するのが、僕たちにとって当然なのだ。

「逃げ去るばかり」は、理性的に<解釈>すれば「(本当はそうではないのだが)まるで逃げ去るように見える」ということになるのだが、俳句作品としては「逃げ去るばかり」という擬人法的な把握・表現による<生命感の迫り出し>がそのまま読者へ与える<触感>になっている、ということである。
「熟れ蜜柑」の<霊>を感じさせる、それがこの句の擬人法なのだ。

そして、俳句作品においては、「なぜそうなのか?」「だからどうなんだ?」といった、擬人法によって描写しようとしているものごとをめぐる説明など必要ない、のだ。
何かを表現するための手法としての擬人法ではなく、擬人法そのものを(鯛焼きにおける餡のように)中核にした一句。これを、ただただ味わい、快・不快を堪能すればよいのである。
それがすべて。これが、俳句作品なのである。

他の蛇笏の擬人法・直喩の句を、いくつか。
どれにも<霊>を僕は感じる。

雪山を匐ひまはりゐる谺かな
いきいきと細目かがやく雛かな
山寺の扉(と)に雲あそぶ彼岸かな
採る茄子の手籠にきゆァとなきにけり(←この句は、来夏に詳しく検討するつもりです)




























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