2018-02-11

自由律俳句を読む 158 「藤井雪兎」を読む〔1〕 畠働猫

自由律俳句を読む 158
「藤井雪兎」を読む1

畠 働猫


 私はいわゆる「クソリプ」というものがわりと好きである。
 穏当な定義をするなら、「Twitter上の発言に対して行われるつまらない返信」といったところだろうか。
 これまで愛好家として様々なクソリプを眺めてきた私に言わせると、クソリプとは、「読解力不足により元の発言が読み取れないまま、異常な熱意をもって繰り出されるもの」である。
 その熱意の空転が何とも滑稽であり、愛すべきものにさえ見える。
 多くのクソリプは謎の上から目線で発せられ、無理に難解な語句を用いようとする。しかしもともと読解力のない人間だから、その用法はしばしば間違っており更なる失笑を買うことになる。
 稚拙な読解から生まれた独善的な熱意、あるいは怒りによって、返信せずにおれないという衝動が形になったもの。それがクソリプである。
 実に滑稽であり、かわいらしい。
 若さ(肉体的にか精神的にかには関わらず)がなければ、そうした情熱は持ち得ないものである。若いって素晴らしい。


 最近目にした(話題になった?)クソリプの例では、「昨日、近所の吉野家行ったんです。吉野家。」で始まる「吉野家コピペ」の改変がTwitterに投稿され、ネタだと知らない世代からマジレスをたくさん受けるというできごとがあった。
 インターネット・ミームの儚い断絶にかすかな悲しみを覚えつつ、読解力とは単純な技能だけではなく、知識(体系的ではない経験知を含む)の量にも左右されるものであることだなあ、と確認できたできごとであった。
 そして句を読む際、鑑賞する際にもこうした時間的な断絶は無関係ではないと感じた。

正確に物事を伝えるためにはある程度の字数が必要であり、それを目的とするのであれば論文を書くべきである。読解力のない人間、時代を異にする人間にも伝えたいのであれば、なおも費やすべき言葉は増えていくだろう。
しかし俳句をはじめとした韻文学の目的はそうではない。
したがって、表現者によって選択されたものが俳句という形式である場合、その解釈は自由であるはずだ。解釈について作者が何を言おうが、表現形式の選択の段階で韻文を選んだ以上、作者の自解すらただ一つの正解ではなく、無限の解釈の一つに過ぎないものとなる。
 ただし自由な解釈にも(自由であるからこそ)やはり厳しく優劣がある。
 優劣の基準は上記のように作者によって決められるものではない。
 その優劣を決めるのは読解力の差である。
そして読解力とは技能だけではなく、知識も含めた能力である。

時代を隔てると世の中も変わる。
発表当時の世相や知識を持たずに過去の俳人たちの句についてあれこれ述べることは、当時を知る者が見るととんだクソリプに見えるかもしれない。
 そのことを冒頭の「吉野家コピペ」へのクソリプの例から再確認した。
 私はクソリプを愛でるが、一般的にはあまりそうではないように思う。
こうやって書いている鑑賞文が、クソリプと思われると恥ずかしい。
私はクソリプを愛でるが、私は愛でられたくはないのだ。

前置きがクソリプへの異常な熱意によって長くなってしまったが、上記のこともふまえて今後はできるだけ現代の俳人の句を取り上げていきたいと思う。
特に今回は自分とほぼ同年代である藤井雪兎の句を取り上げてみる。



<略歴>
藤井雪兎(ふじい せっと、1978-

藤井雪兎は東京都在住の自由律俳人である。
かつて「鉄塊」という自由律俳句集団に所属した私の句友である。
一昨年より「note」において、自由律俳句個人誌「脱兎」を主宰した。(現在休刊中。)



「鉄塊」での句会に提出された彼の句については、本連載においてすでに鑑賞を終えている。今回からは数回にわたり、自由律俳句誌「蘭鋳」(矢野勝久編、平成268月)に掲載された50句と「脱兎」で発表された句を見ていきたい。
それらには共通点がある。いずれも「自選」であるということだ。



▽自由律俳句誌『蘭鋳』(平成26年)より 【50句中1~17句まで】

うたのあふるるさくららららら 藤井雪兎
 この「うた」は、松任谷由実の「桜らららら」であろうか。
 坪内稔典の「三月の甘納豆のうふふふふ」も連想される。
 春の始まりの明るい句である。
 「明るさ」は作者の句の特徴でもある。ひらがな表記もやわらかさを演出している。「あふれる」ではなく「あふるる」としたことも音楽性を高めることに成功している。
 ただ、その「明るさ」は作者の性格の単純な反映とは思わない。
 「明るい」人間に詩や俳句は作れないからだ。
 私は雪兎句の「明るさ」とは、読む者へのサービス精神の表れであると思うのである。

 複数の句がまとめて提示された場合、その最初の句が読み手にとっては第一印象となる。どうしても自己紹介的な意味を帯びるわけだ。これは逆に言えば、「こう見られたい」という作者側の願望がそこに表れるとも言える。

 藤井雪兎は自選50句の最初にこの明るい句を配置した。
 明るく機嫌のいい爽やかな俳人として自己演出しているのだ。
 「明るさ」や「機嫌のよさ」は他者への配慮、もっと言えば、サービス精神の表れである。それらは対人関係の緊張を緩和し、コミュニケーションコストを下げる効果がある。
 この句を最初に目にした読者は、第一印象として爽やかな好青年をイメージするだろう。それこそが雪兎の狙いである。
そのあとに続く句群も平易でやわらかさを感じる言葉で詠われてゆく。
読者はまんまと騙されて、そのあとをおいかけていくことになるだろう。
 少女アリスを奇妙な旅に誘う白い兎。それが藤井雪兎である。
この50句の最後を雪兎は、
たっぷりと血のつまったぼくら笑いころげて 藤井雪兎
というサイコパス丸出しの句で締めくくる。
 読者はそこでやっと気づくだろう。いつの間にか暗い穴に誘い込まれていたことに。
 用心せよ。
暗闇に白く浮かび上がる姿はボーパルバニーである。
その愛らしい外見に騙され油断を見せれば、熟練の冒険者といえども、一瞬で首をはねられてしまうだろう。そして血の詰まった袋に成り果ててしまうのだ。



自分の影に鍬振り下ろしている 同
 動きを表した句であるにも関わらず、一枚の絵を思わせる。一瞬を切り取りながら、写真ではなく絵であるように思う。美しくも、そこはかとない徒労を感じさせる景である。
 上品な鑑賞者はミレーの「鍬を持つ男」を想起するだろう。
 しかし失われた世代である私がこの句から想起するのは、北斗の拳の初期に登場する種もみの爺さんである。村のために命に代えて死守した種もみを世紀末救世主に託したが、それを自分の墓に撒かれてしまい、その英雄的行為を全て無にされてしまう、あの爺さんである。
その徒労に満ちた人生の序章としてこの句の景があるように思う。
 しかしこうした徒労、無益な行為が実は大きな価値を生み出すということを我々人類は知っている。
愚公は山を移し、木を植える男エルゼアール・ブフィエは荒野に森を再生させた。宮澤賢治の自己投影である「虔十」の残した林は子供たちの憩いの場となる。
 そうした無名の聖人たちの偉業はすべて、自分の影に鍬を振り下ろすところから始まっている。
 この句はそうした物語類型の序章であり、人類の集合的無意識に訴えかけるトリガーでもあると言える。



柱の傷片方途切れている 同
 物語性の高い句である。
 「柱の傷」によって、その家族の関係性や歴史を想起させる。
 小津安二郎の映画手法にも通ずるものであろうか。
 二人の兄弟の記録が途切れるのは、死別か、家を出て行ったのか。
 あるいは成長が急に止まったのかもしれない。
 読む者の記憶に訴えかけ、それぞれの「柱の傷」とそれに付随する自らの物語が脳裏に展開されることになる。
 童謡「背くらべ」の歌詞においても、柱の傷は一昨年で途切れている。
 この句は大正・昭和に語り継がれた童謡(そしてそれは雪兎の原風景ともなっているだろう)の翻案とも言える。



強くドア閉めて思い出が揺れた 同
ドアを閉めた衝撃で飾ってあったものが揺れたのだろう。
写真立てか、観光地で買った人形か。
ドアを閉めた者の感情は「怒り」であろう。
怒りの影響で揺れるものたちは、幸福だった日々の象徴である。
怒って出て行く者を追いもせず、ぼんやりと句を拾っているあたりが創作者の業と言える。



窓に書いた悪口がやがて泣き出し 同
これもまた昭和歌謡を思わせる句である。
松田聖子あたりが歌っていても違和感がない。
前句の続きとして見れば、部屋に残された者の視点がドアから結露した窓へ移動したと見てもよいし、出て行った者に主体が移り、舞台が電車の中に移ったとしてもよい。車窓に悪口を書いているのも本心は、追ってくる男の影を窓外に探しているのだ。
昭和である。携帯電話やスマホがない時代のメロドラマである。



ちょっとだけ死をくすぐって君は美しい 同
自傷を繰り返す女性だろうか。
あまり緊迫した死ではないのだろう。
「君は美しい」はそうした女性の承認欲求を満たす言葉だ。相手の欲しがる言葉を与えることはサービス精神の表れでもあり、依存性を高める悪魔の囁きでもある。



松葉杖で百円玉引き寄せた 同
ユーモラスである。吉本新喜劇やドリフターズのコントで見たような。
しかしそこには人間の業が表れており、それをあるがままに認めて笑う視点がある。



ピアス開けて昔のあだ名のような血 同
チェロの音黒ずんで従姉は泣いた 同
2句ともに前任者であれば「観念的」と言いそうな句である。比喩的であり情緒的である。
「昔のあだ名のような血」も「音黒ずんで」もまったく俳句らしくない語選びである。しかしそれこそが雪兎の特徴である詩情なのだ。
「昔のあだ名のような血」はピアスを開けることで決別しようとしている過去の比喩であろうし、「チェロの音黒ずんで」は目標や夢の挫折を表しているのだろう。
このあとに配置されている「野球捨てた筋肉が鉄打っている」もそうだが、雪兎がしばしばモチーフにするものに、こうした過去との決別、挫折がある。それらは自身の経験ではなく、他者のそうした瞬間(実体験かどうかはわからないが)をあるがままに認める姿勢から生まれるのだろう。



はじめての詩を書いて吐く息の白さ 同
 ああ自分が初めて詩を書いたのはいつだっただろう。
 この句のように冬の日だったように思う。
 したがってこの句は正しい。きわめて正しく美しい。
 詩とはこのように自然に生まれるものである。
 そして以後の人生そのものを詠うべきものに変えてしまう。
それはまるで新しい呼吸のように。
そうだここで吐いた息の白さは、まだ表現することに対する恐れを知らなかったあの日の無垢な呼吸の色だ。



花束投げつけられ秋となった 同
 前掲の「強くドア閉めて思い出が揺れた」もそうだが、どうもこう告げられる別れに為す術もなくぼんやり立ち尽くす景が多く見られる。
 それを渇いた静かな表景色にしているのは、執着の無さであろうか。



ハートの外側通って君の家に着いた 同
 「ハートの外側」がよくわからないが、そういう道なのかな。
 ハートの形の池があるとか。
 今「ゼルダの伝説」をやっているが、そういう場所があるな。
 「ハート」を単純でわかりやすい愛情の象徴と考えれば、二人の屈折した関係を表しているともとれる。



からすかあかあからっぽのからだ 同
 最初の句と同じく、すべてひらがなで表記された句である。
 「からっぽ」であるのは自分自身であろうか。ひらがなによってやわらかく表現されているが、死肉をあさる鴉が集まっている木の下で空虚な身体を思うというのはかなり不吉な状況である。
 少しずつ首狩りウサギの本質が垣間見え始めている。



月の裏に女友達隠れていた 同
 夢の景であろうか。それとも月は何かのオブジェだろうか。
 見つけてあげたのだろう。これもサービスである。



ひなたとめてひとひらのひとこえ 同
 これもひらがなの句である。
 リズム優先の句であろう。ちょっと何言ってるのかわからない。
 ただ選ばれている語からやわらかな春の日を思う。
 15句目にまたこのようなやさしい句を持ってくるのも雪兎の演出である。



マルクスの詩集だよかわいいね 同
これは私がクソリプに感じるかわいさと同じではないか。
 かわいいはやはり作るものではなく見つけるものである。



ひみつ基地に妹忍び込んでいた 同
 私には妹がいない。したがって当然このような経験はないはずである。
 しかしなぜかこんなことがあったような気もする。
 私の暮らした田舎町は、通学路のそばの空き家や製材所の二階など、人の来ない遊び場はいくつも探すことができた。
 そうした場所に入り込んで冒険遊びや秘密基地作りをしたものだ。そうした基地は多くの場合、同じ歳のグループで共有されるものであり、年下の子供が近づけば追い払ったものだし、年上のグループの基地には憧れと恐れを感じたものだ。
 だから、この句の兄の気持ちも妹の気持ちもよくわかる。
 同年代の人間の琴線を刺激する。実に巧みな句であると思う。



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今回改めて雪兎の句群を見て強く感じたのはその「自選の確かさ」である。
「鉄塊」に投句された雪兎の句は玉石混淆であった。
当時の彼には「鉄塊」は実験の場という意識が強くあったように思う。
しかし(だから、というべきか)、自選句としてまとめられたとき、そこからは見事に石が取り除かれていた。しかもあたかも初めから玉ばかりで生まれてきたかのような必然性を持って整列している。
この「自選の確かさ」も彼の特徴の表れであるように思う。

これまで、私が目指す視座を「末期の眼」、それに対する中筋祖啓の姿勢を「原始の眼」と、この連載で紹介してきた。
同じように雪兎に名づけるならば、それは「演出者の眼」とでも呼ぶべきであろうか。
「自選の確かさ」とは、自分自身を鑑賞者に届く形で切り取ることができるということだ。それは舞台の演出家や映画監督の持つ資質である。
自らの内奥にある情動に、名前を与え提示する力。
それが「演出者の眼」である。

「演出者の眼」とは「作為者の眼」でもある。
「作為」とは必ずしも「自然」と対になるわけではない。
ただ、「写生」という立場とは一線を画すものであろうかと思う。
その由で雪兎の句が「俳句ではない」と否定する者があるかもしれない。
しかし彼は全く動ずることはないだろう。
彼は「俳人」であることにこだわりなどないからだ。
(この立場は、以前紹介した中塚一碧楼とも共通する。)

何より、「創作」とは「作為」に他ならないものである。
それを自ら意識できているかどうかが、表現者としての覚悟にも影響する。
作為を隠し切れないことと、自在にそれを操ることとはまるで違う。

次回も引き続き藤井雪兎の句について鑑賞したい。
その際には、以前紹介した橋本夢道の影響や、彼のサービス精神とも言うべきパーソナルな部分についても触れていきたいと思う。

次回は「藤井雪兎」を読む〔2〕。




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