2018-02-18

【週俳1月の俳句を読む】この鯨だけは虹を吐く 近 恵

【週俳1月の俳句を読む】
この鯨だけは虹を吐く

近 恵


テレビではオリンピックが流れています。しかも男子フィギュアとか女子カーリングとか。ついつい見てしまうのは仕方がないことであります。横目でちらちらと眺めながらPCに向かって打ち込んでいるうちはいいけれど、気付くとガン見るしている訳です。そしてついつい手がおろそかになってしまうのですが仕方ない。オリンピックだから。羽生君、優勝したし。


冬晴れ間手乗りインコは肩も好き   塩見恵介

手乗りインコと名前はついているが、実際には肩にも頭にもインコは乗る。だいたい愛で眺める時は手に乗せているのだろうと思うが、インコ的には肩に乗って耳たぶを齧ったりもしたいのだろう。手から腕へ、そして肩へ。掴みやすいセーターなどをがしっと掴み、インコは肩に留まって人と同じ目線に立つ。俳句では「も」を避けることが多いが、インコは肩が好きなのではなく、手も肩も好きなのだ。冬晴れ間の明るさがインコとの時間をより一層明るく楽しげにしている。


乾鮭のコーナーキックのように塩   塩見恵介

大胆、かつ納得の比喩である。腹を開いた鮭に塩をするときの手の動き。利き手に塩を握り、肘から下を横になった鮭に合わせ、かつ手首のスナップを利かせつつ横に一振りし、まんべんなく塩をする。それがコーナーキックのようだ、と私は読んだ。確かに肘を支点とした腕の一連の動きと、サッカーのコーナーから繰り出されるキックは共通しているように思える。塩はさながら蹴られるボールということか。何度も塩を振る動きを繰り返してやってみているうちに、確かにそんな気がしてくる。


虹を吐くことも忘れぬ勇魚かな   橋本小たか

これも「も」である。これはもしかしたら「を」でもいいような気がするけれど、敢えて「も」であるからにはそうでなければならない作者の意図があるはず。鯨は潮を吹く。鯨は呼吸をするときに水面に噴気孔を出し、空気を吸ったり吐いたりしている。空気を吐く時に水も一緒にとばされる。それがいわゆる鯨の潮吹きなのだが、虹は普通はいつも吐くわけではないのだろう。けれど詠まれた鯨はいつも虹を吐くことを忘れない。潮と共に虹も吐く。まるで何かの儀式のように、この鯨だけは虹を吐く。だから「も」なのだ。きっと特別な鯨なのだろう。


街道に銭を散らしてゆく鯨   福田若之

こちらの鯨は虹ではない。街道に銭を散らして行くらしい。なにか古の祭りのようである。花咲か爺さんが枯木に灰を撒くように、鼠小僧が長屋に小判を撒くように、節分で関取衆が集まった人に豆を撒くように。ダイナミックで正月のめでたさ、賑々しさが伝わってくる。


冬桜失禁の父慰めて   今井聖

新年のめでたさとは程遠い一句である。しかし新年と言えども起こりうることであろう。何某かの仕事を勤め上げ、子を育て上げ、老いてついに自分の身体も思うようにならなくなってきた父の失禁。どんなに慰められてもショックは隠せない。人間の尊厳に関わることである。僅かに冬桜で救われている。


名乗る前の声の細さよ初電話   関根誠子

正月の挨拶の電話かもしれない。最初のもしもしは少し高くそして細く。名のってからはお互い安心して大きな声で話ができるというものであろう。些細なことであるが、それを捉えた作者の目の冴えが光る。


占ひやべたつく屠蘇の手を広げ   鈴木不意

お屠蘇をいただいた時に手に零れるかなにかしたか。本物の屠蘇は酒やみりんに屠蘇散を溶かしたものであるが、これが個人的には美味しくなくて、縁起の物とはいえ遠慮したい飲み物なのだが、とにかく零れたところがベタベタする。その手を手相見にでも出しているのか。些末なことであるが実感が伴っていて思わず手を握ったり開いたりしてしまった。


宝船自ら描いて一人足りぬ   久留島元

福を願って気合を入れて描いたんだろうな。宝船には七福神。乗船人数も多いし、一人ずつ特長もあるし。全員描ききれるだろうか。それにしてもとほほの極みである。それでは六福神ではありませんか。きっと気付いた時になんとかもう一人描き足したんだろうなとは思うけれど、はっと気付いた時の気分を想像すると可笑しい。気付くという瞬間を挟み、前後の様子まで想像することができる。よい夢を見るために枕の下に敷くと良いとされる宝船。もしその為に描いたのだとしたら、いい夢は見られたのかな。



2018年 新年詠
塩見恵介 あしたの作り方 10句 ≫読む 
橋本小たか 残す音 10句 ≫読む


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