2018-02-11

【句集を読む】あの方向なくひらかれた窓の痕跡 岡野泰輔句集『なめらかな世界の肉』 福田若之

【句集を読む】
あの方向なくひらかれた窓の痕跡
岡野泰輔句集『なめらかな世界の肉

福田若之

 『群青』第18号(2017年4月)より転載
初出時は連載「物語としての俳句」の第14回として掲載された

岡野泰輔は、その第一句集である『なめらかな世界の肉』の命名について、あとがきに次のとおり記している。
この世界を自他の区別があらかじめ失われた、方向も、厚みも、重さもないものとして想像してみる、まるで生まれたての自分が包まれたように。その世界を、しかも世界の内部から言葉だけで触ってみるささやかな営為のひとつを俳句と呼ぶのならその関係の全体を「なめらかな世界の肉」と呼んでも差し支えないだろう。
モーリス・メルロ=ポンティの「世界の肉」という言い回しに典拠をもつこの「なめらかな世界の肉」という呼称は、しかしながら、その哲学からのある程度の逸脱でもある。なぜなら、メルロ=ポンティにとって、「肉」とは、まさしくそれ以前の西洋の哲学が都合よく忘却してきた「厚み」の体験をその思考にふたたび導入するための言葉でもあったはずだからだ。したがって、僕たちは、その逸脱の理由を、付加された「なめらかな」という形容動詞に求めざるをえないだろう。世界を「自他の区別があらかじめ失われた」ものとして想像すること自体は「世界の肉」というメルロ=ポンティの哲学にすでに折り込み済みのことである。だから、「なめらか」という形容は、見るものとしての《私》と見られるものとしての《世界》とが明白な境界を持たずに地続きにあるという意味での「なめらか」を超えた、別のなんらかの意味での「なめらか」であるはずだ。だが、こんなふうに書くと、『なめらかな世界の肉』をひらく読者を不当に失望させることになるかもしれない。なぜなら、この句集もまた、あらかじめ分節された、その意味で「なめらか」ならざる言葉から構成されているからだ。〈まんごうやあらぬところにあるほくろ〉と書かれたときに、「まんごう」と「ほくろ」とは分かたれている。また、〈a/be/wa/ya/me/ro/a/be/wa/ya/me/ro/a/ki/no/ku/re〉と繰り返し挿入される斜線は、まさしくここに刻まれた言葉の「なめらか」ならざることを端的に示している。だが、ここで僕たちは、今一度、この書き手が「なめらかな世界の肉」と呼ぶ「関係」、そしてこの書き手にとっての「俳句」とはなにごとだったかを確認する必要がある。

「俳句」、それは「その世界を、しかも世界の内部から言葉だけで触ってみるささやかな営為のひとつ」の名である。したがって、ここで「俳句」と呼ばれているのはここに集められた無数の作物ではない。むしろ、それらの作物を生成するために世界と触れあう営為そのものが「俳句」だったのである。だから、僕たちはこの句集には決して「俳句」そのものが書き込まれているのではないことを認めなければならない。ここにあるのは、「俳句」の痕跡でしかないのだ。

生前に書いておきますサフランのこと


「俳句」、それはたとえば「サフランのこと」を「生前」に書いておくことだ。そして、僕たちはそれらの痕跡を、たとえば「字」あるいは「文字」と呼びうるだろう。

完市が字を書いてゐるかいやぐら
文字を書くときはことさらきりぎりす


そう、ここに書かれ、残されているのは「字」であり、「文字」でしかない。そしてこれらの二句によってかろうじて指し示されている営為、あれらの「書く」ことがすなわち「俳句」なのである。ここでとりわけ阿部完市の名が呼ばれるのは、彼もまた生涯を「書く」ことに賭けたひとだったからにほかならないだろう。

ここで、「なめらか」ということが、この句集においては、なによりもまず運動を語るための形容であるということに留意しておく必要がある。そのことは次の句の書き込みに表れている。

なめらかに木犀過ぐるもの速し


過ぎるということは運動それ自体にとって本質的な運動である。運動とは過ぎ去る出来事であり、あとにはその痕跡しかないだろう。過ぎ去る出来事としての運動は、ある程度の持続を伴っており、その持続にこそ「なめらか」さがあるのだ。「なめらかな世界の肉」と呼ばれている「関係」の「なめらか」さもまた、そうした持続的な「なめらか」さであったはずだ。なぜなら、あの肉的な「関係」は静的な様態ではなく触れ合いだったのであり、触れ合いとはすなわち持続する運動だったのだから。そして、触れ合いが全的な出来事でもあった以上、世界はあらかじめ方向からも厚みからも重さからも解放されていなければならなかったはずなのである。

だが、「なめらかな世界の肉」は刻まれた。「書く」ことはつねにすでにあの肉的な「関係」の自壊だったのだ。「なめらかな世界の肉」という言葉は、それ自体がもはや肉的な「関係」の痕跡でしかないかぎりにおいて、痕跡としての句集を題する。痕跡は秩序づけられている。《小鳥来るあゝその窓に意味はない》というとき、この「窓」という字は意味している。だが、窓には意味などなかったはずである。「小鳥」と《私》との区別をあらかじめ失わせていた、あの方向なくひらかれた窓には。


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