2018-05-06

時評のようなもの 4 新人賞ふたつ 上田信治

時評のようなもの 4
新人賞ふたつ

上田信治


第5回芝不器男俳句新人賞を、生駒大祐さんが受賞した。

http://fukiosho.org/communication.html#20140301

生駒さんは俳句の書き手としての「登場順」で言うと、『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』の人たちと、現在もっとも若い書き手(*)の間をつなぐ位置にいる。同じ位置には、西村麒麟、藤井あかり、鶴岡加苗、岡田一実といった人たちがいる。

いや、ジャーナリズムがとりあげることを「登場」というのは僭越なことで、どの人もずっとそこにいたし、いるし、それぞれに書き手であったわけですが、『俳コレ』の編集に携わったものとして言えば、上にあげた人たちのことは当然候補としてチェックをしており、惜しくも収めきれなかったのです。

まだ「アンソロジられない」自分たちはどうしたらいいのかという声も、当時、あったとか、なかったとか(キリンさんかな、そういうことを言うのはw)。

しかし「位打ち」という言葉があるくらいで、人間、評価されたら終わり。そこで止まってしまうケースはあまりにも多く、評価され損なって、それでもやめなかった人のほうが、しばしば、ずっと先へゆく。そういうことを、上にあげた人たちは証明したのだし、そのことを見抜けなかったアンソロジストの不明を証したともいえる。

生駒さん、おめでとうございます。

(*)もっとも若い書き手:同新人賞の一次予選通過者でいえば、黒岩徳将、仮屋賢一、堀下翔、青本瑞季、柳元佑太、大西菜生等。ここに、安里琉太、大塚凱、宮崎莉々香、青本柚紀、樫本由貴 、木田智美等々といった名前が加わる。



生駒さんの書法は、人工的かつ擬古的だ。

ジャーナリスティックな口吻をキープしつつ述べるなら、その書きぶりは、いわゆる昭和30年世代の特徴であった端正な「伝統」的書法を、さらにバロック的にマニエリズム的におしすすめたものだと言えるかもしれない。

そういう意味でも、彼は『新撰』の書き手(自分も含めて昭和30年世代の設定した課題の内部にいる人が多い。そして、別ラインとして山田耕司、鴇田智哉、田島健一、関悦史といったかつての前衛の系譜に連なる作家がおり、その総合という意味も含めて)次世代の書き手の橋渡しをするポジションにある。



若き岸本尚毅や田中裕明が俳壇をおどろかせたのは、彼らがあまりにぬけぬけと「上手かった」からだ。

彼らは、多くの俳人にとっての到達点であるような「上手さ」を出発点において達成してしまっていたために、その真正さ(その完成度と、俳句の価値が一致しているかどうか)を疑われることもあった。

岸本尚毅も田中裕明も「伝統」を越える視線と射程をもち、先人踏襲をメタ的な方法意識のうえで行っていた。

だから、その俳句はいきなり(従来の意味で)完成することが可能だったのだし、その先に行かなければならなかったから、「伝統」的であると同時にそれをはみ出していくモーメントをはらんでいた。

そして、生駒さんは、時代を継承する書き手として、彼らのはみ出しの部分に意識を集中させている。

はみ出すことに快感をおぼえつつ写せば、ねじれる(それがバロックということだろう)。

最終選考の段階で、詩人の城戸朱理さんは「この作品は(優れているかもしれないが)よその新人賞でも評価されうるのではないか」と反対意見を述べたのだけれど、生駒さんを推す選考委員が「いや、よその賞では絶対、評価されない」と異様な(笑)推奨をするという一幕があって、それは、彼の作品をよく表していたと思う。

彼の書くものは、一見、優等生的に見えたとしても、その美質は、胡乱さ異様さのほうにある。

足跡の海中に絶え初明り
榛といふ名前に生まれさへすれば
蜜蜂や夢の如くに雑木山
六月に生まれて鈴をよく拾ふ
甘露煮がみなに届くよ霜柱


たとえば、「足跡の」のファンタジックな美しい視覚像を「初明り」が、よく分からなくしていること(3メートルくらいの水深の明るい海底を思えばいいのかもしれないが、それが何の正月だというのか)。「榛といふ名前」とは、いったい……君は木なの?「蜜蜂」も「雑木山」もこう言われてしまってはとても本当のこととは思えず、そして、この「霜柱」は……。

うわごと感とでも言おうか。

それは魚目や澄雄や杏太郎の最高の作に、抽象性としてあらわれるものだ。けれど、それを狙って書くのであれば、作者は、作品が人に真面目に受け取られないことを、誉れとして、引き受けなければならなくなる。

その冗談すれすれの跳躍(または墜落)のすえに、中村和弘委員が激賞したこのような句があらわれる。

輪の如き一日が過ぎ烏瓜
秋淋し日月ともにひとつゆゑ


やわらかい思弁の手ざわりが、俳句らしさへ凝集したような、ふしぎな句だ。

生駒さんが志向する擬古典性、人工性、思弁性、抽象性といったピースは、先にあげた若い書き手に佐藤文香や福田若之もふくめた同世代の作家たちに、それぞれの課題として確実に分けもたれている。

彼らは、その並走関係によって、自らの俳句を豊かにしている。



メデタシメデタシ、と書き終えようとしていたら、第9回田中裕明賞を小野あらた『毫』が受賞したことが発表された。

http://furansudo.com/award/2018/2018.html

『毫』はすぐれた句集だ。受賞に異論はない。

けれど、田中裕明という人がどれだけヤバくて、俳句の可能性をひらいた人で、そして自らはその可能性の全てを実現することなく世を去ったことを思ったら。

福田若之『自生地』と同時受賞でもよかったんじゃないか、と。俳句には、こっちとこっちの可能性がありますよ、ということを示すのでよかったんじゃないか、と。

これは観客席からの勝手な意見ではあるけれど、裕明賞は必ずしも俳壇的ではない貴重な賞だったので、惜しかった。

福田君惜しかったではなくて、田中裕明賞惜しかった、と思ったことだった。




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