2011-11-06

〔週刊俳句時評51〕 安らかなグロテスク・リアリズム――糸大八句集『白桃』 関悦史

〔週刊俳句時評51〕
安らかなグロテスク・リアリズム――糸大八句集『白桃』

関悦史


奥付を見ると2011年8月30日発行とあるので、すでにいささか旧聞に属するのかもしれないのだが、糸大八の句集『白桃』(糸大八句集刊行会)が刊行された。

『青鱗集』(1986年、書肆麒麟)、『蛮朱』(1994年、富士見書房)に続く第3句集である。

著者糸大八は現在病中であり、糸が所属する同人誌「円錐」のメンバーが糸大八句集刊行会を発足させ、協賛者を募っての出版である。300部限定。

あとがきによると、今泉康弘が荒井みづえ夫人の協力により、糸家に保管されていた糸大八作品の発表誌を閲覧、コピー、仮製本、そこから澤好摩が300句を予選して、山田耕司と今泉康弘が選句、その結果を尊重しつつ澤好摩がまとめた225句が句集『白桃』を成す。

こうした厳選を経た結果として、玄妙な佳句が目白押しの句集となった。

紹介するにも句の抄出に困る。

水仙の風で航海してをりぬ
父の素手母の素足の山河かな
銀河系柚子にはもはやもどれまい

 
例えばこの開巻劈頭の3句。

水仙の風による航海の典雅さと自在さ、「父の素手母の素足」と皮膚感覚的な記憶を生々しくたたえた山河のこの世ならぬ懐かしさ、もとは柚子であった、あるいは柚子から生まれ出たとされる「銀河系」の、眩暈のするような懸隔をたたえた可憐なさびしさなどを見ただけでも、なんら無理を感じさせない措辞のなかに織り込まれたものたちが組織する複雑精妙なコスモロジーと、そのなかでしか出会うことのできない慕わしく、懐かしくも詩的驚異に充ちて身の内外を自在につらぬいてたゆたう句たちの稟質は明らかだ。

巻末に付されたインタヴューによると、画家を本業とする糸大八の俳句との出会いは、もとは旧派の宗匠について俳句をやっていた祖母を通じてだったが、俳句をやらされる段になって書店で出会ったのが「俳句研究」。その50句競作の第1回発表で澤好摩、長岡裕一郎、郡山淳一、大屋達治らの句に驚いたという。それ以前の「俳句研究」の全国俳句大会で入選してもおり、それを機に磯貝碧蹄館から声がかかって「握手」の創刊同人となった。

こうした経歴から想像されるとおりというべきか、物の存在感に魅入られつつ、そこから広がる詩性を定型の言葉の中に無理なくすくい取り、スケールの混乱や、物同士の関係の乱れによる惑乱を無限の湧出感にも似た悦楽へと仕立てた句があちこちに見られる。

大皿の割れてしまつたいい月夜
白桃の頂きまでの遊行かな
こほろぎの脚をかけたる飯茶碗
をちこちの水をあやして神楽笛
元旦から煙でありし竹箒
絵蠟燭点してゐたる鯨かな
鳥帰る箪笥長持あとにして
みづうみの水吸ひ上げし胡蝶かな
それとなく霞む練習してゐたり
木枯しとまがふ真赤な包装紙
おまへ誰かと母者の問ひし夏蓬


これらのほか、その特徴を示す句を拾えば、例えば《行く夏の鍋のまはりを如何にせむ》《春寒むの急須の口のまはりかな》などの「まはり」や、あるいは《笹鳴や机の角の目覚めがち》の「机の角」には、物の形態をなめるようにたどりつつ、その余韻のようにひそやかな関係を持ち始める虚空を捉えこもうとする運動が感じ取れるし、《家々に水ゆきわたり梨の花》《雑巾のまだ濡れてゐる落花かな》《夏至の日のまだ濡れてゐる水彩画》などの水気の充溢は、人の身体組織とは別の次元における安逸をたたえている。

そしてその瑞々しい安逸の感覚は、以下の句における、いわゆる二物衝撃とは少々異なる、物と物との奇怪でユーモラスな出会いが織りなす世界にもまた満ち溢れているのである。


鶴の羽いちまい降りし純喫茶
手拭の端を噛みたる鰍かな
てふてふに四隅明るき紙の箱
筆立に立つる耳掻き遠花火
ふくろふの貌など探す違ひ棚
焼印のけむりを立てて梅の花
花冷えの咥へし筆と手の筆と
綿虫やわら人形は日の匂ひ
酢蓮根父のさびしいからだかな
烏賊釣火湯船にいつも湯があふれ
釘箱の蓋の咥へし草紅葉


この傾向の句では《濁流を見て来て薄き敷布団》の対比にも重みがあるし、またその水の重さを描いた《夏鴨の引きずる水の重さかな》には写実の克明さそれ自体を超えて異様な何ものかを含みはじめる伊藤若冲の細密描写にも似た稠密さがある。ナツガモノ…と音読するとわかる、N、M音や「ズ」の音が響きあいつつ「かな」のA音へと開ける音韻上の密度もその稠密さを支えている。

こうした密度や重さによって生み出されてはひそかに哄笑を響かせるような特異な滑稽の妙味もまた捨てがたい。

ふくろふの煽がれてゐる眠りぎは
白桃をふところに入れ大丈夫
火男の生木を燃やす冬の山
うぐひすの片足あげて鳴きにけり
磨かれし茶杓の反りを日の短か
乾坤やうどん一玉混沌たり
蚯蚓鳴く珈琲店のありぬべし
百済から流れつきたる火桶かな
豊年や猫の吐きたる草の玉
大言海をふたつに割るとつばくらめ
頸窩(ぼんのくぼ)あたりを螢ながれたり
永き日の誰そ彼どきの挽肉器
身に余るほどに葉の付く夏蜜柑
馬追の髭のそよげる貨車置場
桐の葉の落ち尽くしたる能衣装


そしてそれらの特質が、生存することの悲しみや苦しみをたっぷりと抱え込み、苦と安逸一体のグロテスク様式じみた句境をあらわしたのが以下の句だろう。

姨捨山の螢まみれの母なれや
正月の黒く大きな客の靴
枕絵を一枚浮かべ冬銀河
海底を列車が走る青葡萄
鶏頭の立往生となりしかな
狼の絶えたる国の鏡拭く
遁れざる受苦もありなむ蝌蚪に足


こられに描かれた絵柄は決して観想を図解したものではなく、心象を物に託して象徴化したというばかりでもおそらくない。糸大八の身それ自体が広やかな展示空間となって、これらの句に捕捉された物どもを抱え込み、遊ばせているようだ。

見ることから描くことへの変成の愉楽、現実と超現実との、幻想と写実との共犯関係のなかに、或るのっぴきならないものが生きて潜んでいるようでもあり、そこが読むものを引き込んでやまない力の源泉となっている。

前衛・伝統といった紋切型の対立軸をかるがると逃れ去るひとつの方途を見せた、本年の収穫といえる句集だろう。

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