2014-08-03

【週俳7月の俳句を読む】 気ままな感想など 野口 裕

【週俳7月の俳句を読む】
気ままな感想など

野口 裕



日々を或る小岱シオンの忌と思う  福田若之

ちょっとびっくりした語が最後の方に。「…なんというか、あらゆる物語の背景にいそうな人で、僕には、トロイにも、ナルニア国にも、ウクバールにも、ボードレールのパリや福永耕二の新宿にも、書かれていないだけで、本当は彼女がいるように思えてならない。」とあるところ。私はてっきり男だと思っていた。


このくらゐに豚がしておく西瓜割り  荒川倉庫

思い出したのは、吉村益信の作品「豚;PigLib」。自虐・ユーモア・批評性に共通点がある。句は、池乃めだか風言い回しが効果的。


火が草へうつり西日にとけこめり  鴇田智哉

認識は常に「何か」についての認識で、必ず「何か」が必要になる。と言うようなことを昔何かで読んだようなうっすらとした記憶がある。鴇田智哉の句は認識の対象をゆっくりと移ろって行くような印象を与える。その対象が句末にぴたりと止まるかというと、そうでもなく、また移ろっていくような気分が読者には残る。何かを抜きにした、認識についての認識を求めて彷徨するかのようだ。動詞や助詞がひらりひらりと裳裾のようにまとわりつくのは、「認識についての認識」という得体の知れぬものがちらちら見え隠れするからだろうか。


錯乱といふもの百合の花の底  西原天気

花底には大抵蜜があるが、百合、特に大ぶりのカサブランカなどでは、ここにありますよと言わんばかりの大玉を光らせている。昆虫がそれをめがけて突っ込むと、粘度の高い花粉が昆虫の体のあちこちにまとわりつく。昆虫にとっては錯乱だろう。
ところで、百合といえば女性を連想させるが、やっかいなものは雌しべではなく雄しべの方だというのも面白い。服などがうっかり雄しべに触れると、拭き取ることはまずできない。百合を活ける場合は、雄しべを抜き取ってしまうのが通例(https://www.nihon-sogo-engei.com/ashirai/cat66/post-9.php)らしい。配偶者もよく花を活けるが、百合の雄しべは必ず取っている。ということは、活けられた百合は去勢されているということになる。句中の百合は、去勢の百合か、両性具有の百合か。
どうも話が混乱してきた。これも句の仕掛けた罠かもしれない。


いつもある木に触れてゐる遠花火  木津みち子

どの句をとっても、対象への視線に揺るぎがない。座禅がすんで半眼を解いた際に、外海の光が覚醒を伴って一気にやってくるときがある。何もかもが揺るぎなく存在していることを認め、祝福したくなるような気分。そんな気分にあふれている。座禅では、寺の事情がほの見えて若干の苦みが生じることがあるが、五七五ではそれがない。


広場なき国(くに)主権者蛇となり巻きつく  関悦史

一見、主権者が勇ましく見えるが、巻きついても手ごたえなくおのれに跳ね返ってくるのがむなしさだけである、とするのが隠された句意だろう。十句は、かつての社会性俳句を彷彿とさせるが、この句の場合下敷きにしたのが赤尾兜子の句、

  広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み
  音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢

の二句。かつてと決定的に違うのが、「広場なき国」とする現状認識にある。


官邸囲み少女の汗の髪膚ほか  関悦史

甘さ抑えたスイーツというところか。同じスイーツ系に属する

  縄とびの純潔の額を組織すべし  金子兜太

と比較して、山本健吉が書いた、

作者の「態度」は現れていても、一かけらの詩もない。舌っ足らずのイデオロギーはあっても、現代を深く呼吸した「思想」というべきものはない(赤城さかえ「戦後俳句論争史」の引用による)

という批判を乗り越えようとする意志は現れている。ただ、やっぱり甘いかな。


第376号 2014年7月6日
木津みち子 それから 10句 ≫読む
関悦史 ケア二〇一四年六月三〇日 - 七月一日 12句 ≫読む
第377号 2014年7月13日
西原天気 走れ変態 9句 ≫読む
第378号2014年7月20日
鴇田智哉 火 10句 ≫読む
第379号2014年7月27日
荒川倉庫 豚の夏 10句 ≫読む
福田若之 小岱シオンの限りない増殖 10句 ≫読む

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