2016-12-25

【週俳10月11月の俳句を読む】ある惧れを抱きつつ 大石雄鬼

【週俳10月11月の俳句を読む】
ある惧れを抱きつつ

大石雄鬼


[失敬 加藤静夫]

俗な世界がこの作者の売りであろうか。人間の人間らしい一面を意識しているかのようである。

水飲んで子種育む銀河かな

子種とは精子のことであろうか。この句、そのあとに続く句とは違い、詩的印象が強い。水を飲むという生活(生きることと)の根幹とその銀河への展開。宇宙に繋がっている子種。今回の加藤さんの俳句の中で一番好きな句であった。銀河に包まれ、銀河に育っていく。「水飲んで」がこの句を現実的世界に結び付けていて強い句となっている。

見回して放屁一発秋の山

台風に備ふる便器磨きをり

敢えてこの句、という作り方か。人間の隠せえぬ部分を俳句にしている。これはだめ、あれはだめというものは俳句にはない。この語を使ってはいけないなどということもない。結局、一句全体での評価となる。この句、放屁も便器もまったく問題ないとは思うが、私には惹きつけられるところまでは行かなかった。「一発」、「備ふる」がどうかなと疑問がある。

身体より心が寒いので失敬

俳句的であるかと言えば疑問ではある。「寒い」を季語として捉えられず、光景と言う場に引き止める臍がないという感じだろうか。だけど、だからと言って惹かれないわけではない。その内容にはなるほどと思わせるものがある。ここで「失敬」をもってくるのは面白い。


[確かなあはひ 樫本由貴]

ぱっと目に入ってくるのは、ひらがなの美しさである。タイトルをはじめ、ひらがな、旧かなの美しさに心惹かれる。そして、原爆以後からはじまり原爆以後で終わる今回の作品。作者は俳句を作る以前に、心に確かなものが存在していると見受けられる。学生にして、広島という地の重さを背負った落ち着いた光景である。

塔といふ涼しきものや原爆以後

原爆以後を意識している作者。後の句に「安芸」が出てくるので広島であろうし、「原爆以後」という時間的流れから作者は広島出身であろうと感ぜられる。塔という周りのものを省略してしまったかのような存在。原爆以後の世界に涼しく、確かに存在している。

朝や僧まづかげろふを掃いてゆく

これも当然、広島を意識しながら読むことになる。かげろうは何であろう。多くの人々を犠牲にした原爆。それがもたらしたあらゆるものが、かげろうであろうか。毎朝、毎朝、何十年もそのかげろう的なものを掃いている。もちろんこの句、広島を前提にしなくとも、充分心にとどく作品である。

花カンナからりと生けて授乳室

花カンナと授乳室との響きあいもよいし、「からりと」の表現も面白い。カンナという存在を軽やかに生けている印象をすっと与える「からり」。広島という地での母子というイメージをもつと、さらにこの句が生きてくる。「広島」を乗り越えた母子の今の風景。


[そつと鳥 野名紅里]

この作者には確かな目を感じる。物を見て、その発見を正確に言葉に言いとめている。

パレットの端に石榴のいろ作る

石榴を描くために「石榴のいろ」を作っているのだろうか。あるいは何かを描くために作った色が「石榴のいろ」と見たのであろうか。この句、「端」がさりげないがうまいと思う。「端」とわざわざ入れたことで、実際に目の前で見ているかのような作りとなった。また「端」によって作者の心情のようなものも同時に感じられる。

消火器の剥き出しにある文化祭

消火器が剥き出しにされていることは、なんとなくそう思い続けてきたような気がする。非常事態のみに使用されるものが、目立つように置かれている。文化祭という装飾的世界の中で、作り上げられた世界を消滅させないための消火器。学生にとっても身近である文化祭がこの句では生きている。

混ぜるたび湯気新たなる茸飯

月光に知る公園のかたちかな

ちょっと直接的すぎるかなとも思われる二句であるが、発見を土台とした作り方にいやみがない。「たび」とか、「知る」とか説明的語句も、発見の確かさに救われている。


[冬が来るまでに 福井拓也]

ちょっとした言葉、視点を差し挟むことにより、異界へと読者を導いていく。

傾くと露とは軽き眠りかな

「霧とは軽き眠り」という感覚的表現が心地よい。「傾く」という説得力がありそうで、全くなさそうでもある語の挿入が、この句をさらにわからなく、そして面白くしている。「傾く」のは何なのか。霧なのか、私なのか。混乱をさらに増幅させながら、それでも妙に説得力がある。

いわし雲微熱の指の長さかな

「微熱の指」まではありがちかなと思ったが、「長さ」でこの句を不思議な世界に導いている。微熱の指の存在感が急に増すとともに、その印象は、俳句上、切れていたはずの「いわし雲」までも巻き込んで、いわし雲へと微熱の指が伸びてゆく、そしていわし雲の中に微熱の指が存在するかのようである。「長さ」の一語で印象ががらりと変わることに驚く。

燃ゆるならてのひら月の便りかな

てのひらに月の便りが届いている。あるいはてのひらそのものが月の便りになっている。いずれにしても月光がてのひらに当たっている光景。まあ、ここまでなら、それほどの独自性はない。しかし、これに「燃ゆるなら」が入ってくると、頭の中のイメージは混乱する。何が燃える?私?てのひら?月?便り?それとも地球?なんであるかは追求せず、燃えているイメージを大切にすることでこの句は成り立つ。俳句の可能性が一挙に広がる。


[馬の貌 斉藤志歩]

肉の句が二句あるからだろうか、肉感的な印象が強く残る。そしてそれは性的なものへと繋がっていくと感じるのは、私のせいか。

蜻蛉に肉の貧しき躯かな

たしかにほっそりした蜻蛉は、ネガティブに考えれば肉が貧しき躯なのだ。それは自分の姿にも重なっていく。俊敏に飛び回ることができるのに貧しい躯なのであり、逆に考えれば、肉が貧しいからこそ俊敏にこの世の中を飛び回ることができる。前者に視点を置きながらも、貧しきことを肯定しているようにも感じる。

肉入れて波の立つなり芋煮会

鍋物に対するトリビアルな世界。波立つはデフォルメした写生であり、メタファでもある。さらに、芋煮会という場を設定したことで、芋煮会という社会そのものが、肉によって波立っているようで、この「肉」に特別な意味を感じるような構成になっている。

朝露やおとなの馬の貌をして

籠を開ければこほろぎの匂ひ濃し

この二句で、私は性的なものをふと感じた。「おとなの馬の貌」「こほろぎの匂ひ」。作者の意図とまったく違うかもしれないが、そう感じてしまった。朝、大人が馬の顔をしている、と見た年若い作者。こほろぎの匂いを強く意識した作者。作者自身の感覚を研ぎ澄ましたような俳句は強い。


[梨は惑星 平井湊]

自分との距離が近い俳句に、その面白さが現れているようである。

酔つてゐて惑星に似た梨を買ふ

この惑星は木星だと思い込んでいたが、見直すとそれは惑星と表現されている。酔っている様と空に迷う星を重ね合わせたのかもしれない。一方私は、梨の姿から勝手に木星と思い込んでいた。この句、作者にとって(無意識かもしれないが)重要な部分は「惑星に似た梨」ではなく、それを買ってしまった酔っている作者自身であろう。

台風一過両耳をよく洗ふ

台風が過ぎ去り、なにかの影響で両耳をよく洗う作者。耳に付着したものを洗い流し、耳の存在を確かなものにする。耳の存在とは、外の世界を自己の世界に取り入れる機能であるとともに、自己の存在を外部に対し主張するための存在とも言える。ただの耳ではなく「両耳」としたことで、作者の心情と主張がが現れている。

湯上がりの人の剥きたる林檎ぬくし

作者と林檎を剥いてくれた人との関係そして距離。ぬるくなってしまった林檎は不味そうでもあり、愛情が籠っているようにも思える。ぬくくなった直接的原因は湯上りなのであるが、「林檎ぬくし」がそれ以上のなにかを言わんとしているようで、ちょっと複雑。

 

俳句とは、老若男女問わず共通だという暗黙の了解があるように思う。だから結社というものがあり、60歳を過ぎた主宰が20歳の会員の俳句を指導したりする。でも、冷静に考えれば、60歳を過ぎた男性と20歳の女性が、同じようにモノを見て、同じように感じているかは甚だ疑問である。

学生特集で今回取り上げた俳句、作者の意向とは離れた鑑賞をしているかも知れず、また作者と同年代の者にとっては他の句のほうが共感が強いのかもしれない。もちろん、それは個人差というものによって覆い隠されてしまうのであるが、年齢・性別によるなんらかの差が少なからずあるかもしれないという惧れを今でも抱いている。


加藤静夫 失敬 10句 ≫読む

第497号 学生特集号
樫本由貴 確かなあはひ 10句 ≫読む
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第498号 学生特集号
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