2017-12-10

【週俳11月の俳句を読む】リアリズムから離陸 北村虻曳

【週俳11月の俳句を読む】
リアリズムから離陸

北村虻曳


この寸評の対象は大学生ぐらいと推定される方から30代前半の方まで、若い人たちの句である。僕の出入りする句会、歌会の平均は60代にはなるだろうからどこが異なるか見てみた。なにしろ、俳句甲子園出場などの人の句を、目を据えて読むのは初めてのことなのだ。

そもそも僕は「赤のまま」が「アカマンマ」で季語なんてことは知らなかった。まあ、この程度の「俳句」知識で読みかつ詠むのが我が俳句だから「詩として読みかつ詠む」と称している。

各人表題付き10句から2,3句ピックアップして感じたことや考えたことを述べる。

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1.『八王子』 西村麒麟
 

我のゐる二階に気付く秋の人

下の道路を歩く人がこちらを見た。こちらは見られない位置にいると思っていたのだが。面白い。こういう役に立たない、普通はすぐ忘れてしまう事を書けるのが俳句なのだろう。

ところで季語・季題という要請を外したとき、「秋の」はどんな働きを持っているのだろう。二階から外を見渡すには、穏やかな春やほっとした秋が良い。また秋を歩く人の目は紅葉や果実を求めてよく周りを見ている。そんな人間がお互いを視認した、ということでそういうチャンスの生まれる「秋」がいいのかな。

虫籠に住みて全く鳴かぬもの

雌だと鳴かない虫もいるが、ここでは鳴かない雄だろう。上掲句よりもさらに劇的でないものを捉えた。本来鳴くものとして期待されていても、鳴かない。「そう覗きなさるな」。擬(なぞら)えて身につまされるところがある。まあ気楽を装い鼻歌を唄うまでだ。

「秋の夜の重石再び樽の上」
「蟷螂は古き書物の如く枯れ」
「焚火して浮かび来るもの沈むもの」

なども人生論的な裏打ちがありげで無さそな。意味があるとしても、作者が初めからそういう意味を意図して作り始めるのではないだろう。意味は付いて来るならついてこいと。コピーや警句と出発点が異なる。


2.『対角線』 小野あらた

富有柿対角線の走りけり

富有柿は上や下から見ると四角い。その四角の対角線にあたるところに溝が走っている。数学的な言葉を用いて捉えきったので理知的な句として立ち上がった。

「柿切るや種の周りの透けてをり」
になると観察内容の形容がやや凡になる。多くの人が気がついていることをあえて指摘した。でもそのまま正確に述べるところにとどまっている。

しかし物事の隅の微細な形や出来事に目を向けるのが本領の人のようである。

くつついて力のゆるぶ玉の露

一読ではわからぬがこれも観察力の句と見た。流動を、あるいは落下をこらえて、それぞれが頑張っている水滴。その並ぶ二つが何かの力でくっついたとき、はちゃはちゃと喜ぶような動きがある。そのまま落下するかも。僕らもそんな存在だな。仲間ができると緩んでしまうんだ。読むほどに納得がいった。


3.『もらふ火』 安岡麻佑

冬銀河肢体ねぢれて球送る

「球送る」は何か。パスすることだろう。球技の種類はわからない。いやどちらかというと集団演技を思う。冬銀河があるから上方に目が行き、僕には並んで頭上で球を送っている感じがする。それにしても夜に健全な運動とはパラドキシカル、尋常ではない。まさか球=魂ではあるまい。

そこで「肢体ねぢれ」の異様な力をより汲むとする。肢体は恐ろしくも銀河の肢体である。銀河が蠕動して球を送るのである。銀河産卵! これではちょっと重くなるかな。冬銀河の肢体とするなら、下の句を変え別の句にする方が一層面白そう。

死なぬ日の影を放ちて大枯野

「自分が死なない日」ととると自分がすでに死んでいるも同然になる。すると「そういう自分が野に影を放つ」という読みさえ引き出され、またすごい光景になる。しかしこの読み、「の」を「は」に変えないとやや苦しい。これはやはり読み込み過ぎで「日が死なない」のであろう。

日は落ちきってしまわない。そこからいろいろな物の影が夕方の野に向かって放射状に伸びている。無駄のない無音の絶景である。
俳句は助詞一つでガラリと変わる結構怖い遊びである。

寝台車冬の雲より遠ざかる

寝台車は高級なツアー用を除いて無くなりつつあるようだ。寝台を降りて窓外を覗くのだろうか。あるいは寝台に横になったまま先程見た光景を反芻するのか。野を走る寝台列車のパースペクティブと運動感が込められている。このオブジェにとらわれない空間感覚が持ち味である。

4.『土の音』 柴田健

三日月を京都タワーに乗せにけり

「気ぃつけやっしゃ」。「落っことすなよ」。
美は確率的に最もありそうなバランスにこそ宿るという退屈な説を読んだことがある。それに反する不安定で、有難い構図である。言葉にはどんな芸当でも可能なのだ。「乗せにけり」の主格は、一般語法で言えば作者自身のようだが、自然や神などと取る解釈も可能だろう。英語の it のように。

ところで季語はどれだと調べると「三日月」だそうだ。すると別の季節に使うな、他に季語を同居させるなとかいうことになる。こんなものにまで制限をかけるのかと、季語体制の占取欲には恐れ入る。

いや、これはこの作品について述べたのではない。作者もこの句では季語の働きを強く意識しているのではないだろう。やはり形態と位置の面白さだ。早い話が満月よりよく似合うではないか。

コーヒーを片手にマフラー忘れたる

もう一方の手はポケットかな、半端な立ち飲み姿。忘れたマフラーでも句に温かみが加わる。「花も紅葉も無かり」けることの華やかさのように。それにしても炬燵とマフラーとは回顧を好む人だ。上の「京都タワー」や
「炬燵からレディ・マドンナ聞きにけり」
もそれなりにレトロ。

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以上、今回編集者より要請された4人の俳句はいずれも有季定型であり、言葉面(づら)はとてもなだらかでわかりやすい。僕も原則定型であるが、有季派ではない。定型もこだわるわけではないのだが、あてどがなくて定型となってしまう。だから俳人がどういう形を選んでも構わないのだが、やはりなにがしかの逸脱が欲しい。意味内容で言えば、例えば汚れていることは、短歌的価値からの逸脱のよく知られた方法である。ここに取り上げた人たちの無用性、些少性、デペイズマンなどもそうした試みであろう。僕としてはわずかでもいいから意識的な逸脱を期待する。

自分でこんな句を作ってみたいと感じたのは安岡麻佑の「大枯野」の句。この人
「魚影ごとこほりて湖のうるはしく」
なども、リアリズムから離陸していると思われた。

西村麒麟 八王子 10句 ≫読む 
小野あらた 対角線 10句 ≫読む
第552号 2017年11月19日
安岡麻佑 もらふ火 10句 ≫読む
第553号 2017年11月26日
柴田健 土の音 10句 ≫読む

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