2015-01-18

【鴇田智哉をよむ6】おもてとうらと、こゑのゑと。 小津夜景

【鴇田智哉をよむ6】
おもてとうらと、こゑのゑと。

小津夜景


鴇田智哉をよむこの連載では、ディアファネースのヴェール性をフィジカルな皮膜論の文脈でのみ捉えるのではなく、そのトポロジカルな変換においてもたびたび語ってきました。

たとえば「続・生きながら永眠する日」では匂いのヴェール(いちじくの匂いの子)に触れ、また「白をめぐって」では音のヴェール(ホワイトノイズ・囀・砂粒の音)を示し、さらに「キラリ的トポス」では色のヴェール(鴇田句全般における色の原理)の仕組みを見てみました。

さて今回は「ヴェールのおもてとうら」について考えてみたいと思うのですが、これに類する話題として私は以前「裏側を人々のゆく枇杷の花」と「木の揺れを覚まさうと日の裏手へと」を次のように評したことがあります。

この「裏」というのも、視線と対象との境界をゆれうごくいわばディアファネースのカーテンです。このカーテンは一瞬に凝縮された起こり/名ごり(つまるところ契機/痕跡)の光速反転を、その微細な揺れによって読者に察知させたり、また「花」と「人の流れ」との感応をうみだす影のうつろいや「日」と「木の揺れ」との共鳴をつかさどる光のかがよいを具現したりと、さまざまな「時空をめぐる、虚薄な気配」を句にもたらし、作品の風景を根幹から支えています。(「続・生きながら永眠する日」
このように「裏」とは句の構図を〈表層/深層〉に二分化するサインではなく、〈一瞬の起こり/名ごり〉〈反復する契機/痕跡〉〈視線と対象とが交錯する場の気配〉などの生じる〈境界〉を意味する、と私は考えています。つまりヴェールの「表」側と別段変わらない機能を担っている、と。

これを超シンプル&プラクティカルに言い直せば、鴇田の句で「表」や「裏」といった語が出てきた場合はいずれも「ここに自己と世界との接触点を生み出すインターフェイス(=界面)がありますよ」との意味に解しておけばいいよ、ということです。

うらごゑのあとちらちらと蛇苺   鴇田智哉

先の句では、花の裏に人のうごきが見えたり、日の裏に木のゆらぎが見えたりしました。一方こちらの句では、声の裏に苺のちらつきが発見されている。この、似通う構図をもった三者を見比べるに、作者が「うらごゑ」をディアファネースとみなしていることはほぼ間違いないと言えるでしょう(勿論こんな比較なしでも、声帯音、特に裏声の味わいってなんとも言えず皮膜っぽいのですが)。また「うらごゑ」が消えた後の苺の「ちらちら」感は、声のヴェールと感応しあう世界の側の「時空をめぐる、虚薄な気配」を表現していると思われます。

話は少し逸れますが、実声(おもて)の音域と虚声(うら)のそれとの間は厳密な「移り目」が存在せず、両声の重なり合った声区を通過しつつ表裏が「地続き」に反転することから、声帯音のテクスチュアにはどことなくメビウスの帯に似た情緒があります。また鴇田は声を「こゑ」と書きますが、この「ゑ」の描線のねじれ具合ときたら、もう思いっきり二次元曲面の風体そのまんまです。鴇田の書く「こゑの句」が実世界と虚世界との双方をまたぐ目眩じみた雰囲気を放っているのは、もしかするとこうした他愛ない要素も絡んでいるかもしれません。

というわけで今回は(1)ディアファネースは表裏の向き付けのないヴェールであり、互いの面は〈襞のごとくたわみ、めくれる布〉的あるいは〈メビウスの帯〉的な反転可能性を有している。(2)この反転可能性は、自己と世界とのあいだの関係に対し〈主客の可逆性と、その無限のフィードバック〉といった影響を及している。(3)こゑの「ゑ」のねじれ具合は二次元曲面の象形文字に大変似つかわしい、といった話でした。とりわけ前者2点の関係には「鴇田の句において〈バレットタイムとしての間〉は如何にして可能なのか」という、時間論的考察のための重要なヒントが含まれているでしょう。

〈了〉


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